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戦争は人の心も変えた…語られなかった「戦争孤児」の過酷な人生

戦争孤児の戦後史

第二次世界大戦下、米軍は日本を執ように爆撃した。およそ50万人が殺されたとされる。生き残った人たちにも甚大な被害があった。たとえば戦災孤児だ。突然保護者を失った子どもたち、しかも平時ではなく戦時から敗戦直後で社会全体が困窮している状況下、子どもたちはどう生きていたのか。

孤児たちの多くが戦後長く沈黙を守る中、自らの体験のみならず他の孤児たちの証言を集め、発信している人がいる。金田茉莉さん(85)。近著『かくされてきた戦災孤児』(講談社)は、今も実態の見えにくい戦後史の闇に光を当てた労作だ。同書と、これまで私が金田さんにしてきたインタビューから、戦争孤児の戦後史を振り返ってみたい。

自著『かくされてきた戦争孤児』について語る金田茉莉さん。自身の経験と仲間の証言、貴重な資料を粘り強く掘り起こした労作だ

遠足気分の集団疎開

1935年、金田さんは東京・浅草で生まれた。野球のボールなどを卸す商店主だった父親は3歳のころ、病気で亡くなった。母親が商売を継いだ。妹と姉の4人家族には、楽しい団らんがあった。正月には着物を着て、自宅近くの浅草寺に行った。お年玉で好きな物を買い、カルタやすごろくで楽しんだ思い出がある。

1944年6月。米軍はマリアナ諸島・サイパンに上陸。1ヵ月足らずで日本軍守備隊を「玉砕」に追い込み、占領した。これにより米軍の戦略爆撃機B29による日本本土空襲が可能になった。本土では学童の疎開が進んだ。空襲が確実視されていた都市から、可能性の低い地方へ子どもたちを送り出す政策だ。

集団疎開と、各家庭が地方の親戚宅などを頼る縁故疎開があった。前者は地元の寺や旅館などで生活させるものだ。本土全体、ことに都市部の食糧難は深刻で、疎開は口減らしの狙いがあったと思われる。また戦争の長期化を見据え、将来の戦力温存という狙いもあった。

 

金田さん一家は、母親の実家がある大阪の郊外に疎開することを決めていた。すると学校の担任が自宅に来て、「茉莉さんを集団疎開させて下さい」と強く勧めた。「お母さんと一緒に行く? 先生と行く?」。母親からそう聞かれた金田さんは、「先生と一緒に行く」とこたえた。

同年8月、宮城県内に集団疎開した。国民学校(現在の小学校)3年生で「遠足へ行く気分」だった。だが、ほどなくホームシックに。さらに現地も食糧難で、お手玉の袋をほどいて、中の小豆をなめて飢えをしのいだ。