2020.05.29

知って得するトリビア…徳川政権が巨額の赤字を抱えた「失敗の本質」

おもしろい経済の話(3)
長沼 伸一郎 プロフィール

千石船に負けた徳川経済体制

実はそれは政権の中心地が江戸という場所にあったという点に起因する。当時の商業の中心地は大坂であり、そこから離れた場所を首府としたことで、この位置選定は本来なら商業文明の抑圧には有利だったはずなのだが、実はこれがとんでもなく裏目に出てしまったのである。

江戸が行政の中心地になったことで、当然それを支える人口がこの都市に集中することになったが、それらの人々は本質的に非生産者である。そして江戸という町の最大の泣き所は、その膨大な人々のための物資を供給する場所が近くになかったことだった。

 

つまり江戸の後背地である関東周辺には、膨大な人口を支える物資を供給する能力がなかったのであり、そのため物資の大部分は大坂から船で運んでくるほかどうしようもなかった。

これこそが徳川政権のジレンマだったのである。実は、徳川政権が米殻経済体制を守るために最もやりたいと願っていたことは、船を作らせず民間の海運を衰退させることだったとも言えるのである。実際、これができさえすれば商業を望み通りに抑制することもあながち夢ではなかったかもしれない。

しかし江戸の町を政権の中心地として活動させるには、大型船の建造とそれによる海運は必要不可欠のものであり、やむなく彼らはそれを許してしまう。

千石船(wikipedia)

これらいわゆる「千石船」は西欧の基準からすればさほど大きな船というわけではなかったが、それでもそれらは単に、江戸という町の給を支える大動脈という、政権側の本来の意図の枠内に留まるはずもなく、それを遥かに超えて商業の土壌にスプリンクラーで豊富な水を与えるようなものとなり、結果的に徳川政権にとっては致命的な商業の繁茂を許すことになったのである。

実際海運というものがあればこそ、各地で生じた余剰米を中央市場に集めることで、だいたいいつも供給のほうに余裕が生じる状態が生じていた。そのため米価の相対的な下落という現象が慢性的に進行し、武士階級の窮乏化と藩財政の累積赤字が、解決不能の問題となってしまったのである。そして、千石船によって苦しめられた徳川体制が、それより一段上の交通テクノロジーたる蒸気船の登場と共にあっという間に瓦解してしまったことは、いかにも象徴的であろう。

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