経済の発達とともに、農業を中心とする第一次産業から工業中心の第二次産業、そしてサービスなどの第三次産業に移行するということはよく知られている。
たとえば労働人口で見ても、現在、先進国ではおおむね第一次産業従事者が3%以下となっている。日本は先進国のなかで比較的第一次産業従事者が多いとはいえ、年々減り続けている(2015年統計で4%)。
かつて、この歴史の必然に敢然と立ち向かったのが、われらが徳川幕府だった。話題書『現代経済学の直観的方法』から、徳川幕府のとった戦略と敗北の理由を見てみよう。
産業が次第に第一次産業から第二次産業へ、第二次産業から第三次産業へ移行していくという事実は割合に古くから知られていたところであり、その最も古い指摘はウィリアム・ペティの「政治算術」(1690年)に記載されたものから始まっている。
それをとって、これは経済学の世界では「ペティ・クラークの法則」と呼ばれているが、ではなぜ農業は商工業との対決の中で敗退していくのだろか。
この観点から徳川政権の経済というものを眺めてみると実に興味深い。それは農業文明が商業文明の上に体ごと覆いかぶさってねじ伏せようとしたという、世界史の中でもちょっと稀な実例ではなかったかと思われるからである。
例えば銃器の発達を意識的に遅らせ、軍事的テクノロジーの進歩の針を一時的に逆方向に戻したという点でもこれは世界史上類のない文明だったが、このことをはじめとしてこの政権は、農業文明と商業文明の対決を知ろうとする者にとっては、世界史全体を見渡しても最も優れた教材である。
では経済面から見た時、徳川体制の最大の特徴が何だったかというと、それはこの体制が米穀経済、すなわち米というものを建前上、主力貨幣として扱い、金銀を代用貨幣の地位に置いていたという点にある。
一見してかなり風変わりな経済システムだが、この政権、というよりその文明体制の基本設計というのは、要するに軍事力を独占した武士階級が、その軍事力によって社会的に商業階級を抑えつける力学構造にあり、そして彼ら武士たちの経済的基盤が、支配地域から収穫される米による年貢から成っていたということである。