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日本のコロナ対応に欠けていたのは「戦争」の意識かもしれない

作戦なき戦術では、勝利もない

「ウイルスとの戦争」という表現の是非

「コロナウイルスとの戦いは『戦争』か?」という議論が内外で起こりつつある。米国ではトランプ大統領が4月1日、対テロ戦争がそうであるように、これはコロナウイルスとの戦争、それも全面戦争であると宣言したほか、ムニューシン財務長官も「これは戦争だ」と表現した。

一方、3月に船内でコロナウイルスが蔓延したことにより危機的状況になった、米空母セオドアルーズベルトのクロジエ艦長は、海軍長官からの任務続行命令を無視した理由として、「我々は戦争中ではない。故に乗員が死ぬ必要もない」と主張した。

専門家の間でも、見解がわかれている。イアン・ブレマーが設立したシンクタンク「ユーラシアグループ」のシニアフェローであるマーク・ハンナは、「すべての闘争が戦争であるとは限らない」「むしろ戦争宣言は、同盟国との協力やサプライチェーンの供給国との関係を悪化させる」と、コロナウイルスとの戦いを「戦争」とみなすべきではないと主張する。

一方、米外交問題評議会会長のリチャード・ハースや軍事史家のアール・ティルフォードは、これは戦争だ、むしろ積極的にそうみなすべきだ、との立場である。

いったい、どう考えるべきか。戦争研究の観点から、このコロナウイルスとの戦いを見てみたい。

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そもそも、戦争とはなんなのか

古来、「戦争」という社会現象を定義するべく人類は悪戦苦闘してきた。その試みの大きな画期を作ったのが、プロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツである。

彼は「軍人にとっての聖書」とされる『戦争論』を執筆したことで有名だが、この『戦争論』は、戦争の定義を語る上で、その主張に肯定的であれ否定的であれ言及せざるを得ない、まさに古典理論の地位を占めている。

余談ではあるが、クラウゼヴィッツも、その良き上司であったグナイゼナウも、そして彼の『戦争論』の論理の中核である弁証法を考え出したヘーゲルも、みな当時大流行していたコレラ――それも遠きインドからドイツにやってきた――で死んでいる。