相模原事件、植松聖は一体なぜ「小指を噛み切った」のか

相模原障害者殺傷事件が僕たちに突きつけたもの【第2回】
森 達也 プロフィール

この時期(から今に至るまで)植松は、事件当時の被告人は心神喪失状態で責任能力はなかったと主張する弁護団に対して激しく反発し、自分には責任能力はあると何度も明言していた。方針を変えない弁護団を解任することまで一時は考えていた。つまり精神錯乱を装うために小指を噛み切るというパフォーマンスを演じた、との解釈には、相当に無理がある。

若いころから自傷傾向が強かったファン・ゴッホは、アルル時代に自らの左耳をカミソリでほぼ根元から切り落とした。この頃に同居していたゴーギャンへの謝罪(あるいは怒り)を示すためという解釈が一般的だが、ゴッホ自身は何も語っていない。この事件をきっかけにゴッホの精神はさらに錯乱の度を深め、2年後にサン=レミの精神病院にて拳銃で自殺する(他殺との説もある)。

これ見よがしにゴッホを引き合いにするつもりはないが、自らの小指を噛みちぎるという行為について、僕たちはもっとストレートに解釈することができるのでは、との提案はしたい。もしもあなたの友人が、あなたに謝罪するためと言って小指をいきなり噛みちぎったなら、とりあえずは傷を気にしながらも、その過剰さと精神の傾斜の激しさにあなたは言葉を失うはずだ。指詰めをするときにヤクザは、氷水などで冷やして感覚を失った小指をまな板などに乗せ、関節を鋭利な刃物で一息に切断する。もしも噛み切ることがルールなら、この謝罪方法はとっくに廃れているだろう。しかも植松の場合、これを二回行っている。第二から第一関節に変えた理由は、物理的に噛み切れなかったからだと説明している。痛みは凄まじかったはずだが、あまりに機械的で、ためらう気配はほとんどない。

 

……僕は植松の小指にこだわりすぎているのだろうか。そう感じる人はいるかもしれない。でも自分を彼の立場に置き換えれば、普通の精神状態にあるとすることには、やはり相当な無理があると思うのだ。

しかし(死刑逃れのパフォーマンスなどの見方が示すように)社会とメディアにこの視点はきわめて薄い。多くの記事を読んだが、事実関係以上には踏み込まないという姿勢はほぼ共通していた。ならば司法も同調する。青沼潔裁判長は一審判決文で、弁護人が私的に依頼した工藤行夫医師の鑑定結果(動因逸脱症候群を伴う大麻精神病)に一定の理解を示しつつも、「病的な飛躍があったとまではいえない」「病的な思考や思考障害によるものがあったとうかがわせるわけでもない」「異常さまではうかがわれない」「理解できる範囲内のものといえる」など強引な述語でパラグラフをまとめ、「犯行時の被告人は完全責任能力を有していたと認められる」「死刑をもって臨むほかないと判断した」と結んでいる。

そもそも植松は犯行から五ヵ月前に、大島理森衆院議長(当時)宛に、障害者を大量に殺戮すると予告した手紙を渡そうとして、通報されて措置入院させられている。メディア用語でいえば(そもそもは警察用語らしいが)マルセイ。普通なら事件を起こしても、心神喪失や耗弱を理由に半分近くが不起訴となり、メディアは実名ではなく匿名で報道する存在だ。