安倍「コラボ」動画を星野源のMVから読み解く

政治に感染するウィルスとしての音楽
阿部 幸大 プロフィール

不発に終わる政治権力

あまり気が進まないが、安倍作品を分析しないわけにはゆくまい。

まずこの動画で注目されるのは、終始カメラ目線の星野と、まったくカメラの方を見ない無反応の安倍、という対比である。これが妙にストレスフルなのは、はたして安倍に音楽が聞こえているのかどうかが不明であるためだ。これはあたかも、片方の通話者が接続に気付いていないオンライン通話を傍観しているかのように不安である。

安倍晋三公式Twitterアカウントより

だが安倍サイドは4つのカットを繋ぎ合わせており、それは徐々に、撮影者と編集者の存在という人為性を露呈しはじめる。小節のアタマにディゾルヴのタイミングを合わせる程度の配慮さえ示さないこの動画は、音楽に合っていないというより、むしろ完全に独立した論理とリズムで動くことで、しいて音楽を無視しているのである。

さらに極めつけは、最後の、テレビを観ているらしきカットである。ここでは3つのことが起こっている。

安倍晋三公式Twitterアカウントより
 

第一に、形式面において、安倍の動作は、左右のスプリット・スクリーンという画面構成に注意を向ける。安倍は「星野源が左側にいる」という構造上のタブーに言及するわけだ(マンガでコマ枠を突き破るのに似ている)。このメタフィクショナルな動作は奇しくも、星野MVのオマージュとなっている。

第二に、内容面において、星野にリモコンを向けるという動作の含意は、文化をリモートでコントロールする、という意志表示であると容易に理解できる。虚構と現実が溶解したいま、これまでのディスコミュニケーションから一転、安倍は星野に積極的に働きかけることになる。

そして第三に、しかし星野源はリモコンに反応しない、という結末がこの安倍作品のオチとなっている(安倍は再度リモコンを向けることを余儀なくされる)。はじめは星野の音楽を安倍が無視していたのが、ここでは立場が逆転していることがわかるだろう。

星野源のギターと、安倍晋三のリモコン。これが文化と政治の比喩でなくてなんだろう。たしかに安倍動画は文化の政治利用を試みた、が、文化の領域に足を踏み入れて「作品化」したその映像は、皮肉にも、政治権力の不発という読解を触発することになる。これは政治利用の失敗を描いた物語なのだ。

曲のリフレインで歌われる「重なり合う」という詩的な歌詞の公式英訳はcross pathで、これは「偶然出くわす」といった意味の熟語だが、文字通りには「2つの道が合流する」という意味である。まさしく安倍動画が実現したのは、この音楽と政治のcross pathであった。

だが、文化はそうやすやすと政治に「利用」されるほど脆弱な存在ではない。政治の領域に持ち込まれたポップ・ウィルスとしての音楽は、いま政治に感染し、それを内側から炎症させつつある。もはや彼らに必要なのは、マスクではない。検査である。