〔PHOTO〕iStock

コロナ禍で浮き彫り、同調圧力と相互監視の「世間」を生きる日本人

企業名が晒され、感染者が差別される…

他国にない「世間」の同調圧力のつよさ

なんだか映画でもみているような光景だ。新型コロナウイルスのパンデミックが全世界を覆い尽くし、すでに死者は21万人以上となった(4月28日現在)。日本では「自粛」や「要請」という言葉が飛びかい、街はゴースト・タウンのようになった。「自粛」で私がすぐに思い出すのは、2011年の東日本大震災直後の人の姿が消えた異様な街の風景のことだ。

あのとき、被災地に大挙して入ってきた外国メディアから絶賛されたのは、海外だったらこうした無秩序状態でおこりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所できわめて整然と行動していたことである。これに限らないが、日本は海外と比較すると圧倒的に犯罪率が低く治安がよい。

いったいなぜなのか? 私の答えは簡単で、日本には海外とくに欧米には存在しない「世間」があるからだ。震災で「法のルール」がまったく機能を失っても、避難所では被災者の間で自然発生的に「世間のルール」が作動していたのだ。

〔PHOTO〕iStock
 

ところが欧米には社会はあるが、「世間」がないために、震災などの非常時に警察が機能しなくなり、「法のルール」が崩壊すると、略奪や暴動に結びつきやすい。アメリカなどで災害時にスーパーなどが襲われ、商品が略奪されるのはそのためである。

歴史的にみると、じつはヨーロッパにもかつて「世間」が存在した。しかし、11〜12世紀以降の都市化とキリスト教の浸透によって、個人(individual)が生まれて「世間」が否定され、個人の集合体である社会(society)が形成された。この社会を支配する原理がまさに「法の支配」、すなわち「法のルール」であった。

日本で社会は江戸時代にはなく、 140年ほど前に欧米から輸入された。が、いまでもこの社会が定着していない。そのかわりに連綿と続いてきたのが「世間」である。『万葉集』で山上憶良は、「世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども…」と歌っているが、「世間」は1000年以上歴史がある。日本人は、いまなおこの「世間」にがんじがらめに縛られている。