5月 1日 水俣病が初めて報告される(1956年)

科学 今日はこんな日

地球のみなさん、こんにちは。毎度おなじみ、ブルーバックスのシンボルキャラクターです。今日も "サイエンス365days" のコーナーをお届けします。

"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

1956年の今日、水俣病が初めて報告されました。

 

瓦礫からの復興に邁進する戦後の日本に暗雲が垂れ込めました。

『水俣湾のいまを動画で 知る水俣病』 朝日新聞社

熊本県の水俣市には、新日本窒素肥料(当時、1965年にチッソへ改称)のアセトアルデヒド生産工場がありました。そこでは、生産の際に生じた工業廃水を水俣湾に垂れ流していたのです。廃水を摂取した水俣湾に棲む魚の体内では、メチル水銀という有害成分が蓄積していき、体内の水銀濃度はだんだん濃くなっていきました(この現象を生物濃縮といいます)。

あたかも水銀爆弾のごとくに変貌した魚を食べることで中毒になり、五感や運動能力を侵されてしまうというのが水俣病の真相です。そのため最初期には、水俣湾周辺に住む漁師や猫の間で広がっていきました。1956年に5歳の女の子が病院に運び込まれ、5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」と公表したことで、水俣病の存在が全国に広まることとなりました(この女の子も5月のうちに亡くなります)。

しかし、新日本窒素肥料が責任をなかなか認めなかったため、廃水は1968年まで垂れ流され続けました。

水俣病ののべ罹患者は2万人とも3万人とも言われていますが、正確な実態はわからないままです(一時金など何らかの救済を受けた人は約7万人、一方で公式に認定された犠牲者は2000人弱)。謂われのない差別に苦しんだ人々を考えれば、影響を受けた人数はさらに多くなるでしょう。企業は良い製品を作るのはもちろんのこと、その過程で住民や環境に被害を与えないようにしなくてはなりません。

2013年には水俣の地で、水銀や、水銀を使った製品の製造及び輸出入を規制する国際条約「水俣条約」が結ばれました。

『【特集】水俣病の悲惨さを世界に伝えた8日間(前編)』 熊本県民テレビ