整列した特攻隊員を前に訓示する、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将(壇上後ろ姿)

コロナ禍に迷走する政治家に重なる、責任回避した特攻立案者たちの姿

75年経っても変わらない無責任体質
75年前の戦争を体験した高齢の元軍人のなかにさえ、「戦争中よりも閉塞感と怖さを覚える」と言う人がいる、新型コロナ感染症拡大による「コロナ禍」。これまで500名を超える戦争体験者の声をじかに聞いてきた筆者は、見えない相手との出口の見えない戦いのなか、緊急事態宣言発出の記者会見での総理の一言に、大戦中、特攻隊の成立に深く関与した将官の言葉をふと重ね合わせた。昔もいまも変わらぬ「命じられる側」と「命じる側」の共通点、そして「一言の重み」とは――。
 

「日本の礎になる」と死を覚悟した若者たちの一方で

筆者は、戦後50年を迎えた平成7(1995)年より、25年にわたって、旧海軍の元軍人、ご遺族をはじめとする戦争体験者の取材を続けてきた。その間に会った人は1000人、インタビューした人は500人をくだらないが、戦後75年のいま、多くがすでに故人である。たとえば、平成7年、約1100名をかぞえた零戦の元搭乗員は、四半世紀を経た現在、1割に満たない数十名が存命であるにすぎない。

今年(令和2年)に入ってからも、毎月のように訃報が届くが、特にここ2ヵ月ばかりの間に、それ以前とは明らかに状況が変わったことがある。

新型コロナウィルス感染症の拡大、政府の緊急事態宣言発出を受け、コロナで亡くなったわけではない人までも、葬儀を家族葬ですますようになったため、縁の深かった故人との最後の別れがままならなくなったのだ。

なかでも、かつて谷田部海軍航空隊(谷田部空・茨城県)の特攻隊員だった小野清紀(きよみち)元中尉(「生きているハチ公を見た」97歳の元特攻隊員が語る東京の原風景https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54986)が4月6日に99歳で、同じく谷田部空の特攻隊指揮官だった香川宏三・元中尉が4月19日に95歳で、それぞれ亡くなり、告別式への参列が叶わなかったことは、いわゆるお歳に不足はないとはいえ、そして、新型コロナウィルス感染予防の観点からもやむを得ないとはいえ、故人たちとの生前の親交を思えば、断腸の思いである。

元零戦搭乗員で特攻隊員だった小野清紀さん。4月6日死去、享年99
元零戦搭乗員で、谷田部海軍航空隊特攻隊指揮官だった香川宏三さん。4月19日死去、享年95

慶應義塾大学を卒業後、飛行専修予備学生として海軍に入り、24歳で終戦を迎えた小野清紀さんは、戦争体験を顧みて、

「ぼくは”死”というものにものすごく恐怖を抱いていたし、本心では死にたくなかった。でも、卑怯者とは言われたくない。二度、特攻志願を募られて、二度とも志願書を提出しました。昭和20年6月、全搭乗員に特攻要員となることが下命されたときは、仕方ないと思っただけで、動揺はありませんでした。

もはや勝つ見込みがまったくなくなった特攻以降の戦争は、戦果のためというより、終戦の条件を少しでもよくするための戦いであったような気がするんですよ。我々はそのための捨て石、将来の日本の礎になるんだ、と」

と語っている。

零戦の主翼の上に乗る小野清紀さん(昭和20年)

海軍のエリートコースである海軍兵学校を卒業し、20歳の若さで、小野さんたち年長者も多い部下を率いる特攻隊指揮官となった香川宏三さんは、

「まだ若かったですから、生きるの死ぬのとはあまり考えない。それよりも、特攻隊を率いて飛ぶ指揮官として、部下に恥ずかしいふるまいをしてはいけない、ガッカリさせてはいけない、人に後ろ指を指されまい、その一心で一生懸命でした。いずれ敵は本土に上陸してくるだろう。そうなればせめて敵空母と刺し違えて一矢を報いたいと思うばかりで。生き残ってしまうとは想像もしませんでした」

との言葉を遺している。

谷田部海軍航空隊の零戦(昭和20年)
訓練のため、谷田部基地を離陸する零戦(昭和20年)

「日本の礎になる」――これは当時、免れられない死に直面した若者たちにとって、自らの命に意味を見出す、精いっぱいの生き方だった。「人に後ろ指を指されまい」との思いもまた、この世代の多くの日本人にとって、ごく自然な道徳律であったのだ。

コロナ禍で外出自粛の状況が続くなか、小野さん、香川さんの取材ノートを見返しながら、当時の若者たちの純真な心意気に思いを馳せる。

ーーひるがえって、彼らに特攻を命じた、上層部の将官たちはどうだったか。

昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官としてフィリピンで最初の特攻隊を出撃させた大西瀧治郎中将(のち軍令部次長)は、昭和20(1945)年8月16日未明、特攻で死なせた部下や遺族に謝罪し、世界平和を若い世代に託す遺書を遺して自刃した。なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。部下に「死」を命じたことを、大西は自らの命をもって償ったのだ。

いっぽう、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮した宇垣纒中将は、8月15日、終戦を告げる玉音放送を聞いたのちに自ら特攻機を率いて出撃、部下を道連れにしたことで、遺族はもちろん、旧海軍関係者からも強い批判を浴びている。(これには、軍令部という官衙の次官だった大西中将と違い、実戦部隊の総指揮官だった宇垣中将を一人で死なせるのは部下の恥、と擁護する声もあるにはあった)

終戦の翌日、自決した大西瀧治郎中将(左)と、玉音放送後に特攻隊を率いて出撃した宇垣纒中将(右)