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「もしドラッカーが香港人だったら…」今、何と戦うのか

歴史は繰り返すのかもしれない

ドラッカーはなぜナチス・ドイツと闘ったのか?

ピーター・F・ドラッカーといえば「マネジメント」という概念を生み出した「経営の神様」として日本でもよく知られる。ビジネスや経済に関わる人であれば誰もがその名を知るであろう。

2002年にアメリカ政府から大統領自由勲章を授与された後、05年にカリフォルニア州クレアモントの自宅にて老衰のため亡くなっていることや、GM(ゼネラルモーターズ)などの米国を代表する企業のコンサルタントであったことなどから「米国」のイメージが強いが、オーストリア出身であり、その生涯も単なるコンサルタントを超えた波乱万丈に満ちたものである。

ドラッカーが生まれたのは1909年である。当時、オーストリア=ハンガリー帝国であったウィーンの裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭だ。1917年に両親の紹介で、同じユダヤ人の精神科医ジークムント・フロイトに会ったという逸話があるが、裕福かつ高い教養を持つ家庭で育っている。

しかし、第1次世界大戦がすべてを変えた。オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝である皇帝カール1世は、1918年秋に「国事不関与」を宣言して国外へ亡命した。これにより約650年間中欧に君臨したハプスブルク家の帝国が崩壊し、ドラッカー一家の生活も激変した。

1929年にドイツ『フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー』紙の記者になり、ナチ党のアドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルスに対してたびたびインタビューを行っている。

1933年に発表した「フリードリヒ・ユリウス・シュタール-保守的国家論と歴史の発展」という論文がユダヤ人を嫌うナチ党の怒りを買うことを確信し、ロンドンに移住してイギリスの投資銀行に勤めることになる。

アドルフ・ヒットラー、1938年 phoyo by Gettyimages

1939年、米国に移住し、処女作『経済人の終わり』を発刊。この本に注目したウィンストン・チャーチルが書評を1939年春に発表した。これにより、ドラッカーは世の中に知られるようになる。また、1940年にチャーチルが首相に就任すると、英国士官学校の「卒業記念書籍」に本書を加えるよう指示している。

つまりドラッカーの原点は「命がけで独裁権力と闘うジャーナリスト」なのだ。

 

そこで、もし今「ドラッカーが香港人であれば」という視点で、我々に迫りくる脅威である共産主義中国の独裁と侵略について考えてみたい。