コロナ危機で露呈…日本政治は「家族」への想像力が貧しすぎる

世帯主への給付なんてありえない
森山 至貴 プロフィール

もちろん、「家族」での活動に対してこうした態度を取るのは、人々が自分たちに都合よくものを考えているからではない。国や専門家もそれに「お墨付き」を与えている。厚生労働省HP上の「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」にも「家族以外の多人数での会食を避けること」と、家族を例外とする記述があるし、公衆衛生の専門家が「家族で散歩するのはいい」と述べている。

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ただし、よく考えれば、同居している家族はもともと濃厚接触しているから互いに感染させても仕方ない、ということにはならない。

職場などで感染者と濃厚接触した人が家で経過観察する場合も、同居の家族とは室内でも物理的距離を保つよう保健所から指導される。遠方に離れて暮らしている家族ならばなおのこと、移動を伴う物理的接触は避けるよう求められる。里帰り出産も、実家を離れて大学進学した途端オンライン授業に切り替わって心細くなった大学生の帰省も、自粛を余儀なくされているではないか。

逆に、ルームシェアしている同居人と連れ立って散歩することは公衆衛生学上問題ない(し、もちろん自粛を要請されてはいない)はずだが、行政文書にも専門家のアドバイスにも当然そのような居住形態への言及はない。

ここから見えてくるのは、新型コロナウィルスへの対策において、「家族」は科学的にも政策的にも重要な要素のひとつであること、そして、文脈に応じて異なる定義を与えられることによってさまざまな「ずれ」を含みながら使われているということだ。雑駁に言ってしまえば、家族は曖昧なかたちのまま新型コロナウィルスをめぐる政治の要(かなめ)、ハブ(結節点)になっているのである。

本稿では、新型コロナウィルス対策において家族という関係性にどのような役割が負わされ期待されているかを、いくつかの関連する言葉や事例に着目して考えてみたい。さらに、そこで想定され利用される曖昧な家族像は、「平時」において政治が家族をさまざまな仕方であてにする事態と地続きである点についても考えてみたい。