なぜフィリピンの人々はいまだに日本の特攻隊員に敬意を払うのか?

最初の特攻隊が出撃した基地への旅
神立 尚紀 プロフィール

最初の特攻隊が編成された建物は今…

第三展示室の前には、「神風」と刻まれた石碑があり、そこに線香の台や鈴(りん)まで置かれている。ここにも、若き日の門司親徳主計大尉の写真が飾られていた。門司氏は、平成20(2008)年8月16日に亡くなっている。

 

和彦さんが、

「父は2008年8月16日に亡くなりました。昭和と平成、年号は違えど、大西中将と同じ『20年8月16日』でした」

と説明すると、デラクルスさんは、さらに目を丸くして、

「ほんとうですか? 信じられない、奇跡のような符合ですね……」

と驚いた。

この展示室はバンバンでの陸上戦闘が中心で、銃や遺品が展示されている。なかには、日本兵の出征時に寄せ書きされた血染めの日章旗があり、

「これはアメリカ兵が記念に持っていたものですが、ここに書かれた『井上正雄』さんのご遺族に返そうと、日本の新聞社やNHKを通じて探したけれど見つからなかった。残念です。なんとか見つからないでしょうか」

と、デラクルスさんは言った。誠実な響きの言葉だった。

バンバン博物館に展示されている血染めの日章旗。米兵が記念に持っていたもので、デラクルス館長が「井上正雄さん」の遺族を探したが見つからなかったとのことだった

見学すること約一時間。バンバン歴史博物館を辞去しようとすると、デラクルスさんが、このあと行きたいところがあれば案内してくれるという。私たちは厚意に甘えることにした。まずはマバラカットの二〇一空本部跡に行ってみたいとリクエスト、すると一瞬、デラクルスさんの表情が曇った。

「とても悲しい知らせです。二〇一空本部だった建物は、3年ほど前に取り壊されて……跡地はいま、フライドチキンのケンタッキーになりました」

大戦中、日本軍は現地の民間人の住居を接収し、司令部や士官宿舎として使用した。二〇一空本部は、サントスさんという地元の名士の住居で、二階建ての瀟洒な洋館だった。接収中、サントス一家は近くの小屋で暮らすことを余儀なくされたが、サントス夫人は戦後、日本からの慰霊団に、終始親切に接してくれたと聞いている。

1970年代、サントス家の子供たちが独立したのを機に住居は大改装され、原形をわずかにとどめるのみとなったが、その後も長く、この家のフェンスには「KAMIKAZE BIRTH PLACE」と記したプレートがかけられていた。由緒あるこの建物が、ついになくなって、いまはケンタッキーに姿を変えているというのだ。

残念だが、なくなったものは仕方がない。和彦さんの提案で、そのケンタッキーで遅い昼食をとることにした。

二〇一空本部跡のケンタッキーは、マバラカット市街の目抜き通りにあった。筋向いはマクドナルドで、往時の面影は全くない。店内は清潔で、学校帰りの女子学生や家族連れで華やかに賑わっていた。フライドチキンと、日本のケンタッキーにはないおにぎりを注文し、それらを皿にあけて、ソースをかけて食べるのがご当地風らしい。

マバラカット市街、かつて二〇一空本部が置かれていた洋館は取り壊され、跡地はケンタッキーになっていた。画面左の駐車スペースのあたりで、大西中将が最初の特攻隊員に訓示をしたはずである(撮影/松井雄希)
 

食事をしながら、昭和19(1944)年10月19日深夜、大西中将と主要幹部が特攻隊編成の会談をした二階のベランダはあのあたり、関行男大尉が指揮官に指名された士官食堂はこのあたり、翌20日朝、最初に編成された特攻隊員26名を前に、大西中将が訓示をした前庭は店の駐車場……などと想像をめぐらせてみるが、いまひとつピンとこない。ただ、歴史の痕跡はなくなっても、若い人の笑い声にあふれた平和な店内の様子を眺めていると、これはこれでよかったのだとも思えた。

続いて向かったのは、マバラカットからほど近い、バンバンの丘にある第一、第二航空艦隊司令部壕跡である。昭和19年11月中旬、それまでマニラに置かれていた司令部は、最前線のこの地に移された。

神社の鳥居のような建造物をくぐって丘を数十メートル登ると、左手に、高さ4メートルはあろうかという大きな石碑があり、「海軍中将 大西瀧治郎 平和記念碑」と、ややたどたどしい漢字で刻まれていた。この碑は、この地に司令部が置かれ、大西中将がいたことを伝え残そうと、デラクルスさんらバンバン歴史協会の有志が、横浜市鶴見区の総持寺にある大西中将の墓を模して、手造りで建てたのだという。この字を書いたのは、日本人女性と結婚した、デラクルスさんの兄とのことだった。

バンバン郊外の丘にある「海軍中将大西瀧治郎平和記念碑」

大西中将記念碑からさらに坂を上ると、民家の敷地内に三つの壕が口を開けている。入口に、強度を保つためしっかりと柱や梁が組まれていた痕跡はあるものの、壕のなかには何もない。かつて、ここで特攻隊員たちが寝泊まりしていたと誤って伝えられたこともあったが、宿舎ではなく司令部と通信基地である。

バンバンの一航艦、二航艦司令部壕。昭和19年11月から20年1月までの2ヵ月足らずの間、ここに司令部が置かれた
司令部壕内部から外を見る

この近くには、山下奉文陸軍大将が遺したといわれる、いわゆる「山下財宝」目当てで掘られた穴もあるらしいが、私たちは見なかった。筆者が門司氏の生前、毎月のようにインタビューに通っていたときにも、どこで番号を調べたものか、山下財宝の手がかりを求める電話がしばしばかかってきたものだ。門司氏は、

「私は海軍だから、陸軍のことはわからない。そんな財宝はないと思いますよ」

と答えるのがつねだったが、相手はなかなか諦めず、その種の電話は、戦後60数年が経っても後を絶たなかった。