なぜフィリピンの人々はいまだに日本の特攻隊員に敬意を払うのか?

最初の特攻隊が出撃した基地への旅
神立 尚紀 プロフィール

フィリピン人が建立した特攻隊記念碑

次に私たちは、マバラカット西飛行場跡にある特攻隊記念碑に向かった。この記念碑は、もとはアンヘレス市在住の画家、ダニエル・H・ディソン氏が、1974年、マバラカット東飛行場跡に建てたもので、最初の碑がピナツボ山噴火の際に流失したのち、こんどはマバラカット西飛行場跡に建てられた。――これには少し説明が要る。

 

大戦中、マバラカットに暮らしていた14歳のディソン少年は、よく飛行場に遊びに行き、そこで日本海軍の搭乗員に可愛がられた。終戦後、成人してマニラの大学を卒業したディソン氏は、猪口力平・中島正共著『神風特別攻撃隊』の英訳版を読み、衝撃を受けたという。自分を可愛がってくれたあの若者たちは、身を捨てて体当り攻撃を決行した特攻隊員だったのだ。

そこで、ディソン氏は、マバラカットから飛び立った特攻隊員たちを慰霊し、顕彰したいと考えた。戦争の被害者が、敵の将兵を祀るとはなにごとかと、反対意見も多く出るなか、ディソン氏は反対者を粘り強く説得し、同志を募って「カミカゼ・メモリアル・ソサエティ」(KAMESO)という団体を設立した。そしてついに、最初に特攻隊が突入に成功したさい出撃したマバラカット東飛行場跡の一角に、記念碑を完成させたのである。

1974年といえば、戦後29年。特攻隊員はもちろんのこと、特攻作戦の中枢にいた航空隊司令や参謀クラスの元軍人、そして戦没者の親世代も存命だった頃である。日本側の関係者は、本来、自分たちがやるべきことを地元フィリピンの人たちがやってくれたことに感謝し、1975年以降、毎年、慰霊団が訪れるようになった。

初期の頃には、二〇一空司令・山本栄大佐や、大西瀧治郎中将夫人・大西淑惠さん、航空参謀として最初の特攻隊編成に関わった吉岡忠一中佐らも、元特攻隊員たちとともに参加している。

それにしても、フィリピン人が日本の特攻隊を大事にしてくれるというのはどういうことかーー慰霊団に参加した門司親徳氏は、ディソン氏に聞いてみた。

「祖国に殉じて戦った霊に、敵も味方もありません。それに、私たちフィリピン人は白人支配の犠牲者です。同じアジアでも、経済的に立派に自立を遂げている台湾や韓国とちがって、アメリカ人は、フィリピン人に自分でものをつくることを学ばせなかった。アメリカがつくったものを、一方的にフィリピン人に売りつけてきたからでした。だからフィリピンでは鉛筆1本つくれない。アメリカは、植民地フィリピンに対して愚民政策を推し進めてきたんじゃないでしょうか」

というのが、ディソン氏の答えだった。大いに感じ入った門司氏は、自らが受け取っている軍人恩給のすべてを投じ、ディソン氏らの活動を支援するようになる。

ところが、1991年、ピナツボ山噴火のさいの土石流で記念碑が失われ、再建の話が出るようになると、こんどはマバラカット市観光局が、この地に特攻隊の記念碑を建てるという計画が浮上してきた。マバラカット市当局は、ディソン氏が元の場所(東飛行場跡)に記念碑を再建することを認めず、ディソン氏を外す形で、新たな記念碑をつくることになったという。日本人が来る観光スポットのシンボルに、との思惑があったのかもしれない。

ディソン氏はやむなく、マバラカット西飛行場跡の西端に土地を確保し、ここに記念碑を建立することとした。門司氏は、マバラカット市の動きは否定しないが、心情的にディソン氏を応援していたことは言うまでもない。

かくて、あたかも「元祖」と「本家」が互いに存在を主張しあうような形で、平成16(2004)年、カミカゼが「最初に飛び立った飛行場」(ディソン氏の西飛行場)と「最初に突入したときに発進した飛行場」(市当局の東飛行場)、二つの記念碑が同時に建立されたのだ。

だが、ディソン氏は2015年12月10日、85歳でこの世を去り、日本側の関係者もほぼ全てが鬼籍に入ってしまったいま、記念碑建立のいきさつを知る人はほとんどいない。

――話を戻すと、私たちがまず西飛行場の記念碑を目指したのは、和彦さんの父・門司親徳氏が応援していたディソン氏にゆかりの場所であるからにほかならない。ところが、現在、西飛行場の記念碑は射撃場の敷地内になっていて立ち入り禁止、事前に許可証を入手しない限り、そこに行くことはできないのだという。許可証と言われても、どこに申請すればいいのかもわからない。

そこで、ゲートの番をしていた守衛に、訳を話して交渉すると、一人500ペソ(約1000円)を払えば、10分間だけ入場を許可するということで話がついた。もちろん、これは正規の入場料ではないはずだが、入れてくれるのならやむを得ない。

車でゲートを入るとほどなく、右側の草むらの奥に記念碑が見えた、周囲は草ぼうぼうだが、記念碑の敷地だけはきれいに整備されている。碑の左右にはフィリピン国旗と日本の軍艦旗が描かれ、その間に<第二次世界大戦に於て日本神風特別攻撃隊が最初に旅立つた飛行場>と記されている。

台座の上には観音像が置かれ、供物台には、以前日本人が来たときに供えていったものか、干からびた果物や溶けた蝋燭が残っていた。

マバラカット西飛行場跡、ダニエル・ディソン氏が建立した特攻隊記念碑
 

碑には、ディソン氏の文章を誰かが翻訳した、やや拙い日本語の解説が刻まれていた。その言葉は、次のように締めくくられている。

<第二次世界大戦中の日本の「神風」は全ての戦争歴史の中で最大の軍事目的の体当たり組織である。外国の侵攻から日本本土を防衛する為に死に物狂いの手段であった。この地に訪ねる参拝者の皆様に謹んでお願いします。全ての「神風」と連合軍戦没者に対して永遠に安らかにお眠りください、そして、全世界の為にいのりますと祈念して下さい。
 歴史研究家 ダニエル・エッチ・ディソン>

おそらく、無許可で人を立ち入らせたことがバレてはまずいのだろう、守衛は終始そわそわと落ち着かない。私たちは、観音像に線香をあげ、供物を供えると、急き立てられるように記念碑をあとにした。

さらに私たちは、マバラカット東飛行場跡、かつてディソン氏が建てた記念碑の跡地にマバラカット市がつくった記念碑を訪ねた。交通量の多い幹線道路に面したところに、日本の鳥居を横長にしたような形のゲートがあり、飛行服姿の特攻隊員の像が立っている。この像は、実在の特攻隊員ではなく、特攻隊をテーマにした舞台で主役を演じた俳優・今井雅之氏をモデルにしているという。

マバラカット東飛行場跡に立つ特攻隊員の像
 

ゲートの左脇には、ダークグリーンの地に<神風 Kamikaze(DIVINE WIND) EAST AIRFIELD>と大きく書かれた「MABALACAT CITY TOURISM OFFICE」の看板が立っている。土曜日の昼で、学校帰りらしい制服姿の女子学生が大勢前を通るが、彼女たちはこの碑に全く関心はないようだった。