なぜフィリピンの人々はいまだに日本の特攻隊員に敬意を払うのか?

最初の特攻隊が出撃した基地への旅
神立 尚紀 プロフィール

12の飛行場から続々と特攻隊が

――戦後75年の今年(2020)3月、筆者は、特攻隊編成の一部始終を知る立場にあり、生前インタビューを重ねた門司親徳副官の長男・和彦さんほか3名とともに、フィリピンのかつての特攻基地跡を訪ねた。

門司親徳氏は、会社や家庭で戦争の話をすることはほとんどなく、和彦さんは小さい頃、風呂で問わず語りに戦争のことを聞かされたかすかな記憶があるのみだという。フィリピンで父の足跡をたどるのは、和彦さんの宿願だった。

 

新型コロナウィルス(COVID-19)はすでに猛威をふるっていたが、出発前に確認したところ、羽田-マニラ便は平常運航で、入国制限も敷かれていない。3月13日午前1時30分羽田空港発のJAL077便に乗り、現地時間5時(日本時間6時)、マニラ空港に到着。そこで車をチャーターし、あえてガイドはつけず、Googleマップを頼りに、かつての特攻基地を訪ねることにした。まずはマニラ市街を抜けて北上し、クラークフィールドを目指す。

クラークフィールドは、マニラの北側、ルソン島中部に広がる大平原で、戦時中、ここには、北からバンバン北、バンバン南、マバラカット東、マバラカット西、クラーク北、クラーク中、クラーク南、マルコット、アンヘレス北、アンヘレス東、アンヘレス西、アンヘレス南と、12もの飛行場があった。

当時、飛行機搭乗員が携行した航空図に各飛行場の詳細はなく、一帯を赤い円で囲って「クラーク航空要塞」とのみ記されている。アンヘレスのように、上空から見て飛行場とわからないよう、草原のままにしている秘匿基地もあった。そのため、自分が進出すべき飛行場の位置がわからず、よその部隊の基地に間違えて着陸する飛行機が後を絶たなかったという。

昭和19(1944)年10月20日、特攻隊が最初に編成された二〇一空本部はマバラカット市街にあり、10月21日、最初に出撃したのはマバラカット西飛行場、初めて突入に成功した10月25日に発進したのはマバラカット東飛行場である。さらに、ほかの飛行場からも、特攻隊は続々と出撃した。

昭和19年10月21日、マバラカット西飛行場で出撃前の整列をする特攻隊員たち。飛行服姿の左端が敷島隊隊長の関行男大尉

マニラのニノイ・アキノ国際空港からクラークまでは約100キロ、早朝から大渋滞のマニラ市街を抜け、きれいに整備された高速道路に乗れば、約2時間の道のりである。高速道路は、かつて大西中将と門司副官が走った幹線道路のやや東寄りを通っている。左右には広大な田園風景が広がり、よく晴れた空の下、牛や山羊が草を食んでいるのがあちこちに見える。

サンフェルナンド近くに差しかかった頃、右前方の平原の向こうに、まさに擂鉢を伏せたような形の山が見えた。アラヤット山である。「決死隊を作りに行くのだ」と大西中将がつぶやいたのは、このあたりだったに違いない。

マニラからクラークフィールドに向かう車窓から見えたアラヤット山

予約していたアンヘレス市内のホテルに荷物を預け、最初に訪れたのは、アンヘレスとマバラカットの中間あたりに位置するクラーク博物館である。

ここには、太古の昔から現代までの、クラーク地方の歴史資料が時代を追って展示されているが、なかでもアメリカ統治時代、この地に置かれた航空基地に関連する展示が目を引いた。

クラーク博物館

太平洋戦争初期、在比米軍は日本軍の猛攻を受け壊滅、クラークは日本陸海軍航空部隊の一大拠点となる。しかし、やがて巻き返したアメリカ軍は戦争に勝利、ふたたび広大な米空軍基地が置かれる。1991年4月、空軍基地からわずか20キロのピナツボ山が大噴火、同年11月、米軍は、基地使用期限を更新せず撤退するが、2012年からふたたび駐留している。

――いろいろとめずらしい資料、写真の展示があって興味深く見学したが、太平洋戦争については、明らかに米軍側の視点に立っていて、ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館ほどではないものの、日本人としてはあまり居心地のよいものではなかった。