1944年10月25日、フィリピンのマバラカット東飛行場を発進する神風特別攻撃隊敷島隊

なぜフィリピンの人々はいまだに日本の特攻隊員に敬意を払うのか?

最初の特攻隊が出撃した基地への旅

「決死隊を作りにゆくのだ」――大西瀧治郎中将のつぶやきを、副官・門司親徳主計大尉は、隣り合わせに座った乗用車の後席でじかに聞いた。フィリピン・マニラの第一航空艦隊司令部から、クラークフィールド・マバラカット基地へ向かう道中、昭和19(1944)年10月19日、夕刻のことである。これが、以後、終戦まで10ヵ月にわたって続けられた特攻作戦の、事実上の始まりだった。

戦後75年の今年3月、筆者は、門司副官の長男・和彦氏らと、クラークフィールドの特攻基地跡を訪ねた。「新型コロナウィルス」COVID-19がフィリピンでも猛威を振るい始め、首都がロックダウンされたため、ごく短期間の滞在に終わったが、マバラカット、バンバン、アンヘレス……平和でのどかな風景のあちこちに戦争の爪痕を垣間見ることができた。そして、現地で出会った男性の意外な素顔とは――。

 

特攻の始まりを告げた静かな号砲

フィリピン・ルソン島。一台の黒塗りの乗用車がマニラから北に向け走っている。乗車するのは、第一航空艦隊(一航艦)司令長官として新たに着任する大西瀧治郎中将と、大西の副官・門司親徳主計大尉(戦後丸三証券社長。1917-2008)、そして運転員の3名で、目的地は、一航艦の零戦隊・第二〇一海軍航空隊(二〇一空)が本部を置くクラークフィールドのマバラカット基地だ。

太平洋戦争末期、アメリカ軍の大部隊がレイテ湾口のスルアン島に上陸、本格的な反攻が始まって2日後の昭和19(1944)年10月19日、夕刻のことである。

「特攻生みの親」とも称される大西瀧治郎中将(右)と、門司親徳副官(昭和20年5月、台湾にて)

上空を飛ぶ敵機から発見されにくいよう屋根に木の葉の擬装をほどこした車は、マニラの海岸通りから市街地を抜け、郊外の国道に出るとルソン島中部の平野を北上した。門司は、大西中将と並んで後席に座っている。大西が右、門司が左。

大西は、マニラを出てからずっと黙っている。門司もあえて話しかけることはせず、窓の外を眺めている。左右はずっと田んぼで、黄金色の稲穂が続くが、もう稲刈りの季節らしく部分的に刈り取られている。サンフェルナンドの街の大きな教会が見えたときには、もうだいぶ陽が傾いていた。

右前方に、アラヤット山という、擂鉢を伏せたような形の山が見える。その向こう側の空には、墨色の雨雲がかかっていた。門司が、

「暗い陰鬱な雲だ。あの下は雨かな」
 
と思って見ていると、不意に、大西が低い声でなにかをつぶやいた。門司は、はじめはよく聞き取れず、「は?」とちょっと顔を右に向け、耳を澄ませた。大西は、こんどは門司にもはっきりと聞き取れる声で、

「決死隊を作りに行くのだ」

と言った。――このつぶやきが、その後、戦争が終わるまで10ヵ月にわたって続く特攻作戦の、まさに始まりを告げる静かな号砲だった。

その晩、民家の洋館を接収したマバラカットの二〇一空本部で、大西は主要幹部を集め、体当り攻撃隊(特攻隊)の編成を指示した。すでに前日、レイテ湾に集結した米軍の大部隊を、日本海軍の総力を挙げて攻撃すべく、「捷一号作戦」が発動されている。

この作戦は、戦艦「大和」以下の主力艦隊の砲撃をもって敵艦船を撃滅することが主眼になるが、艦隊のレイテ湾突入を成功させるためには、空からの掩護が欠かせない。だが、フィリピンの制空権を担うはずの第一航空艦隊は、これまでの作戦上の不手際から戦力をすでに消耗していて、前任の司令長官・寺岡謹平中将がその責を負う形で更迭され、大西が着任したときには、麾下の航空兵力は約40機しか残っていなかった。

フィリピンの日本軍航空兵力は、陸軍の70機、追って台湾から応援に駆けつける予定の第二航空艦隊(二航艦)の230機を合わせても約340機にすぎない。この戦力をもって、多数の空母に1000機を超える航空兵力を擁する敵の大部隊と戦うには、せめて敵空母の飛行甲板を破壊し、一週間程度、使用不能にするしかない。

しかし、これまでの戦訓では、敵艦隊の攻撃に向かった航空部隊は、ほとんど戦果を挙げることなく、大半が撃墜されている。通常の攻撃方法では、もはや生還はおろか、敵艦に損傷を与えることさえ困難になっていた。

そこで、大西は、自ら指揮する第一航空艦隊の主力である二〇一空の零戦に爆弾を搭載し、敵艦に体当りさせる「決死隊」の編成を決意したのだ。

 

体当り攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と名づけられ、10月25日、のべ10機の爆装特攻機の突入で米護衛空母1隻を撃沈、5隻に損傷を与える「初戦果」を挙げる。主力艦隊によるレイテ湾突入は結局、果たせずに終わったが、「特攻」は以後、第二航空艦隊や陸軍、さらには内地の航空部隊にも波及して、恒常的な戦法となっていった。

特攻戦死者の総数は、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2531名、陸軍1417名、計3948名にのぼる。大西瀧治郎中将は、終戦を告げる天皇の玉音放送が流れた翌日、昭和20(1945)年8月16日の未明、渋谷南平台の海軍軍令部次長官舎で割腹して果てた。特攻隊員たちや遺族の苦悩を思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断って、自らの血の海のなかで半日以上悶えた末の、壮絶な最期だった。