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「ワガママすぎる人」は、なぜ歴史の中で消えていったのか

「社会脳」という謎【後編】

行きすぎた「自己中」は淘汰される

前編で記したように、人間同士の社会的関係こそが脳進化を加速させ、脳の巨大化を促したとする「社会的チャレンジ説」は「個体同士の競争」という面を強調する。リチャード・アレクサンダーとニコラス・ハンフリーが唱えたこの説がのちに「マキャベリ知性仮説」という名で呼ばれるようになった所以である。*1

リチャード・バーンとアンドリュー・ホワイトゥンによってこの名が付けられて以来、社会的チャレンジ説は多くの攻撃に晒されてきた。「マキャベリ的」という言葉には「自己の利益のみを関心事として、目標の実現のために手段を選ばず行動する」といった批判的な意味合いが込められているためだ。

しかし、それは誤解である。まず第一に、人間が発達させた知能を「目標の実現のために手段を選ばない」と形容するなら、それは誤りだ。人間の脳が適応した「社会的環境」とはむしろ、目標の実現のために「手段を選ぶ」必要性が高い環境である。

われわれは、つねに心に「他人」を留めおいている。人類の脳は、共感という機能によって、自分だけでなく他の誰もが同様に利益(望み)を求めているということが分かる。すると、自己利益の実現手段には社会的な制約が生じる。つまり、できるだけ「お互いのためになる」手段を選ぶことが、安全で無難な選択肢としてつねに考慮される。

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では、安全で無難な選択肢を選ぶ意味とは何だろうか?先史時代の社会環境には、警察も司法機関もなかった。しかしだからと言って、安易に他人の恨みを買うような真似をすることに「代償」が伴わなかったわけではなく、むしろ現代よりも危険だったのである。復讐心(revenge)という感情システムは、不穏当な手段を用いようとする他者への「抑止力」として進化した。*2

「マキャベリ的」と言うときに念頭におかれる「自己の利益のみを関心事とする」という点も誤りである。なぜなら、人類社会では「自己の利益のみを関心事とする」ような個体は淘汰の憂き目を見るからだ。