『パラサイト』はなぜ映画史上の奇跡なのか?「水」が持つ大きな意味

格差映画はいかにして育ったのか
大島 育宙 プロフィール

映画史的には「正義の問い直し」という視点が冷戦崩壊後に顕在化し、9.11以降に加速する。

当初はマイノリティーや反戦派が牽引する個別具体的なトピックであったが、クリント・イーストウッドが『父親たちの星条旗』(2006年)以降、「悩む英雄」像を描き続けるなど、普遍的な話題へと変質していく。

「悩む英雄」のモチーフは『マン・オブ・スティール』以降アメコミ実写映画にも飛び火し、マレフィセントやハーレイ・クインといったヴィランズ(悪役)が主人公の実写映画もライト層に抵抗なく受け入れられるようになる。

2010年代を興行的に一人勝ちしたと言えるMCU(マーヴェル・シネマティック・ユニバース)の作品群でさえ、一貫してヒーローの責任と功罪を主題の一つとしている。

90年代から現在までに起きたのは「主体と客体を隔てる壁の融解」という現象ではないか。

「良い者⇄悪い者」「自分⇄他人」という二項対立を自明とせず、「敵」からの目線を許容する「視点の双方向化」とも言うべき変化。

そして向こう側からの視線を奇妙なもの、理解できないものとして切り捨てるこのではなく、「あり得たもう一人の自分」として受け入れる言わば「複眼化」のような進化が、ライト層の観客にも起きた。

身分制の残り香もなく「なんとなくみんな平等」という人権幻想にも限界が来た。「人間みんな平等って聞いてるけど? そんなに豊かなお前のその位置、私でもあり得たんじゃないの?」という気づきが格差感情の根本にはある。

 

『パラサイト』を含め、格差を描くことの義務感で真面目一辺倒にならず、娯楽作として広く受け入れられる映画が増えた。

ポリティカルな正しさだけでなくエンタメ性もクリアできる作品がたまたま2018年以降に同時多発したのはきっと、観客側のリテラシーのキャッチアップや配給・スポンサーの市場予想のタイミングもあろう。

未解決事件、障害者の責任能力、食糧問題…とどんな娯楽作にも必ず社会問題を反映してきたポン・ジュノが今回たまたま格差を題材にし、それを受容する姿勢が世界的に整っていたことで奇跡が起きた。

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