3.11 釜石で被災した9歳の少女が復興の中で抱いてきた熱き思い

私には自分の言葉で伝えたいことがある
大友 信彦 プロフィール

釜石には、悲しみだけでなく、希望も未来もある

ワールドカップが終わった翌日、留伊は東北新幹線に乗って東京へ向かった。「ワールドラグビーアワード(年間表彰式)」で、釜石市がキャラクター賞(特別賞)を受賞することになり、釜石シーウェイブスの山崎秀樹副市長、桜庭吉彦GMとともに出席したのだ。

ワールドカップ決勝の翌日に開かれたワールドラグビーアワードで、キャラクター賞を受賞した釜石市の 代表の一人として留伊は授賞式に出席した
ワールドカップのあとも留伊は震災伝承活動を続けた。2019 年 11 月、トップチャレンジリーグの釜石シ -ウェイブス対コカコーラの試合会場で。右はともに伝承活動をしていた同級生の佐々木千芽さん

留伊は時の人になった。「キックオフ宣言」は大きな反響を呼び、スピーチの映像は世界中にシェアされた。メディアにも多く登場した。18歳の普通の女子高校生とは思えないほど、いろいろなところから声がかかった。留伊は、それを前向きに、軽やかにこなしながら、足下を忘れなかった。

2020年春、留伊は慶応義塾大学に入学した。大学では防災を学ぶつもりだ。進学を前に、留伊は「防災士」の資格を取った。心臓マッサージの実技を学び、救急車が到着するまでの簡易的な対処法を学んだ。消防士やボランティアの人たちと一緒に、災害発生時に人はどんな行動をとりがちなのか、どんな声をかければ人は逃げるのか、子供にはどんな声かけ、注意が必要なのか。外国人はどんな情報が必要なのか。トリアージという重い役目についても、いざというときに手助けできるように意味と判断材料を学んだ。

 

将来のイメージも、少しずつ変わってきた。2015年ワールドカップの視察へ行ってきたときは、CAさんにあこがれた。初めての海外旅行で何もわからなかった留伊に、優しい笑顔と言葉使いで接して不安を取り除いてくれたからだ。

次にあこがれたのはアナウンサーだった。キックオフ宣言で多くのメディアと触れたことで、より多くの人に情報を、具体的には防災の情報を届けられる存在になりたいと思った。

そして今は、もう少し広い目で自分の将来を見ている。ワールドカップの現場で、伝承活動などで取材を受けることを通じて、メディアの仕事にはたくさんの人が関わっていることを知った。

最後にアナウンサーが原稿を読むまでには、記者の人がたくさんの人に話を聞いてエピソードや資料を取材して、たくさんのスタッフが知恵を出しあっている。テレビだけでなくいろいろなメディアでたくさんの人がいろいろな形で情報やエピソードやメッセージを発信している。

震災の教訓を多くの人に伝えて、防災の意識を持ってもらうには、いろいろな方法が、いろいろな関わり方がある。今はまだ、ひとつの目標にとらわれるより、いろいろな人と関わって、いろいろなことに挑戦していきたい。

「釜石には、震災遺構がないんです」と留伊は言う。

仙台の荒浜小学校、石巻の門脇小学校、大川小学校、女川の女川交番、南三陸の防災庁舎、気仙沼の向洋高校校舎、陸前高田の奇跡の一本松……同じ日に津波に襲われた三陸沿岸の町には、いろいろな形で震災遺構が残され、あるいは整備が進められている。それは震災を語り継ぐための、忘れないための入り口であり、震災を知らない新しい世代に「ここまで波が来たんだよ」と伝えるための材料だ。だが釜石には、それがない。

でも、釜石には、震災でなくなった小中学校の跡地に作られた、素敵なスタジアムがある。世界への感謝を込めて作られ、未来に向けて出航して、ワールドカップで世界の人たちに来てもらった約束の場所がある。

それは、たくさんの住民が亡くなった悲しみと、たくさんの子供たちが助かった希望の場所に作られた、未来のスタジアムだ。そこでは、ワールドカップという最高に幸せな時間があった。釜石と世界がつながり、未来とつながる、それを実感できた幸福感は忘れられない。

震災は悲しい出来事だったけれど、悲しみがすべてではない。私たちが災害を乗り越えたことを、そして、次の災害の被害を少しでも減らすために考えていることを、私たち自身の言葉でもっともっと多くの人に伝えていきたい――。

18歳の春、留伊はそんな思いを胸に、大学生活を始めようとしている。