2018年8月18日、釜石鵜住居復興スタジアムのオープニングセレモニーで、「キックオフ宣言」を行う洞口留伊

3.11 釜石で被災した9歳の少女が復興の中で抱いてきた熱き思い

私には自分の言葉で伝えたいことがある

東日本の太平洋岸を巨大津波が襲ったとき、その少女は9歳、沿岸部にある小学校で授業を受けていた。揺れの直後にクラスメイトたちと身一つで高台に逃げ、命を守ることはできた。

あれから9年。彼女は、あの震災がなければ、思うことがなかったことを思い、出会うことがなかった人々と出会い、経験することがなかったはずのことを経験してきた。そして今、大学生となった彼女は、この蓄積を胸に新たな一歩を踏み出そうとしている。

 

当たり前のことがいかにありがたいかを知った日々

2011年3月11日、洞口留伊(ほらぐち るい)は、釜石市立鵜住居(うのすまい)小学校の3年生だった。

算数の授業中だった。いきなり大きな揺れがきた。留伊は急いで机の下に潜った。教室の真ん中にあるストーブに載っていた大きな鍋が揺れて、湯がこぼれ散った。

「アチ!」「やばい!」

ストーブに近い席の生徒たちから悲鳴が聞こえた。

「どごさ逃げる?」

大きな地震があったら、まず津波を警戒しなければいけない。三陸沿岸の釜石市では誰でも知っている。

釜石市鵜住居地区。右の山裾にある復興スタジアムの位置に留伊の母校・鵜住居小学校があった。海は目の前だ

生徒たちは、ジャージーの上に防寒着だけを羽織って、校舎の最上階へ避難した。すると、隣接する釜石東中学校のお兄さんお姉さんたちが高台へ避難し始めている姿が見えた。誰もが即座にその光景の意味を理解した。鵜住居小と釜石東中の生徒たちは、いつも合同で避難訓練を行っている。

「私たちも逃げなきゃ!」

誰が最初に言ったのかはわからないが、担任の教師も生徒たちも、すぐに1階に降り、裏の高台を目指した。中学生たちも合流し、手をつないで一緒に走ってくれた。

避難場所は、急な坂を上ったところにあるデイケア施設だった。そこまで懸命に走った。ようやくひと息つける、と思ったところで、「津波が来る」「土砂崩れだ」という声が聞こえた。

「もっと上さ逃げろ」

何が起きているんだろう? でもそっちを見てはいけない気がした。留伊は振り向かずに走り出した。

東日本大震災後、津波が引いたあとの釜石市街

しばらく急坂を駆け上がると、隣町の両石との境目、恋の峠に出た。道路はここから下り坂で、もう上には行けない。でも、その上には、開通したばかりの高速道路、三陸自動車道があった。高速道路は高台を走っている。国道から土手をよじ登り、小さな子は先に登った中学生に引っ張ってもらい、三陸道に出た。そこに大型トラックが通りかかった。

「良ぐ生ぎでだなあ」と声をかけてくれたトラックの運転手さんは、「乗れ」といって、子供たちを次々とトラックの荷台に担ぎ上げた。低学年の子から順番に。中学生のお兄さんも小さい子を持ち上げてくれた。

トラックは、避難所になっていた、市内への入り口にある閉校になった旧釜石一中まで子供たちを運んでは、恋の峠まで戻り、何度も往復をして子供たち全員を運んでくれた。

母と弟とは避難所で会えた。弟は幼稚園年長組だった。3人は1週間ほど最初の避難所で暮らし、内陸の避難所へ移ったあと、父とも会えた。

最初の避難所では段ボールにくるまり、家族や友達と身体をくっつけて、互いの体温で寒さをしのいだ。口に入れたのも水とせんべいだけ。移った先の避難所では炊き出しがあり、震災の後初めて温かい味噌汁やおにぎりを口に入れることができた。

東日本大震災後の釜石市内の避難所の様子
 

以前は当たり前だと思っていたことが、こんなにありがたいものなのだと、留伊は初めて知った。

避難所での生活は3ヵ月続き、そのあと仮設住宅に入った。不自由なこと、わからないことばかりの毎日が続いた。

留伊の家は津波で全壊して、ランドセルや学用品はすべて流された。だけど、日本各地、世界各地から、たくさんの人が自分たちを助けてくれていることも感じていた。

日本中、世界中からたくさんの品々が届いた。ランドセルは新品をもらえた。学校の廊下には、英語だけでなくいろいろな外国語のメッセージが書かれた差し入れが並んだ。

有名人も激励に来てくれた。甲子小にカズこと三浦知良さんが来てくれてサッカーをしたこと、AKB48が来てトラックのステージでライブを開いてくれたことはよく覚えている。

「あっちゃん(前田敦子)も来てました。『ヘビーローテーション』とか、一緒に踊りながら歌いました(笑)」