新型コロナウイルス対策、政府はどこまで「自由」を制限できるのか

「公衆衛生」の倫理
児玉 聡 プロフィール

多くの国でロックダウンが行われている理由はこのように説明できるが、本当にロックダウンが正当化できるかは、別の議論が必要である。上述した通り、感染症予防目的の個人の自由の制約には大きなコストが伴う。ロックダウンなどの対策による利益よりも不利益の方が大きい可能性もあり、費用と便益について実証的研究が必要だとの意見もある*1

他方で、韓国のように、感染の有無を確認するPCR検査を大規模に行って感染者を特定したうえで、スマホのGPSやクレジットカードの利用記録を用いて感染者の移動ルートを特定し、それによって感染した可能性のある者を追跡するという方法(接触者追跡調査)も有効であることがわかってきた。韓国ではロックダウンは行っていないから自由の制約がないかというとそうではなく、プライバシーが制約を受ける可能性がある(朝日新聞2020年4月3日「韓国 医療崩壊しないわけ」)。

さらに、インターネットが発展した今日の感染症対策においては、デマやフェイクニュースをどうするかという問題もある。すでに国内でもファクトチェックサイトができており、信頼できる情報を提供するサイトを作って「悪貨を駆逐する」のが一つの手段であろう。

しかし、それだけではマスクなどの買い占め騒動や感染者やその家族に対する差別などを防ぐことができない可能性もある。その場合は、たとえばシンガポールがしているように、情報のコントロールのために表現の自由を制限することも視野に入れなければならない可能性がある(産経新聞2020年2月19日「フェイクニュース蔓延 東南アジア苦慮」)。

 

適切な予防策をどう立てるか

このように、社会での感染症の蔓延を予防しようとする感染症対策は個人の自由を制限し、それによりさまざまな不利益をもたらす場合がある。要するに、感染症予防には相応のコストがかかる。そのため、重要なのは、市民一般の健康や生命を守るために「必要最小限の制約」で済ませることである。