コロナ危機で再確認した「人は意外と変わらない」という現実

「久松るす」に「コレラ一揆」…
田中 ひかる プロフィール

当時の人々は、猛威を振るうインフルエンザを「お染風(かぜ)」と呼び、「お染」に魅入られる人物と言えば恋人の「久松」しかいないという発想から、「久松 るす」と書いて貼り、「お染風」が家に侵入するのを防ごうとしたのである。

内務省が、「感冒」に替わる「インフルエンザ」という呼称を使うようになったのは「お染風(1889~1891年)」の頃からだが、呼称に関わらず、それ以前からインフルエンザの流行はたびたびあった。

いずれも「お染風」同様、歌舞伎や浄瑠璃のヒロインにちなんで「お駒風(1776年)」「お七風(1802年)」、あるいは最初に流行した地域にちなんで「津軽風(1827年)」「琉球風(1831~32年)」などと呼ばれた。

「庄之助さんはここにはいません」

「お七風(1802年)」の「お七」とは、「八百屋お七」のことである。火事で焼け出された「お七」が避難先の寺で小姓と恋仲になり、彼に再会したいがために放火したとされる事件が起きたのは江戸初期の1683年。

その120年後に流行ったインフルエンザがなぜ「お七風」と呼ばれたかというと、ちょうどその頃、お七を題材にした小唄が流行していたからである。

 

「お七風」の予防策は、お七が恋慕した寺小姓「庄之助(一説に左兵衛。浄瑠璃や歌舞伎では吉三郎、吉三)」にちなみ、「庄之助 るす(留守)」という貼り紙だっただろうか?

当時のことはわからないが、福島県の古殿町に暮らす昭和10年代生まれの伯父から聞いた話では、大正時代に多数の罹患者、死者を出したインフルエンザ、いわゆる「スペイン風邪」が流行した頃、古殿町の家々は、「庄之助さんはここにはいません」と書いた紙を戸口に貼り付けたという。