新型コロナ、韓国映画『パラサイト』が描いていた「感染症と排除」の関係

韓国映画の想像力
真鍋 祐子 プロフィール

ポン監督は、「映画で世界を変えられるか?」と聞かれたら、その確信は持てません、としながらも、「しかし、映画は世界をありのままに、赤裸々に映し出すことができると思います」と語っている。今まさに映画の想像力、そのとおりのことが起きている。

 

欠損家族と娘殺し

次に『グエムル』と『パラサイト』をつなぐ、もうひとつの想像力について述べたい。どちらの作品でも、それまで受け身の生き方をしていた父が「娘の不在・死」をきっかけに、主体的に動くようになる。そうした父の人格的転換が、物語を大団円へと向けて駆動するのだ。これはきわめて韓国的な、映画の想像力を喚起させる構造である。

『パラサイト』終盤、キム・ギテクがパク氏を刺殺した契機は、目の前で娘のギジョンが刺殺されたことだ。それまでギジョンの計画と采配に従ってパク氏のお抱え運転手を演じてきたギテクは、娘の死によって父としての自我を取り戻す。

ギジョンを演じたパク・ソダム〔PHOTO〕Gettyimages

これはムングァンの後釜に収まっていた母チュンスクも同様で、ギジョンの死を前にうろたえるキム一家の素性が、おのずと白日の下にさらされるのだ。「高台の大豪邸」でそれぞれ使用人としてばらばらにふるまっていた四人家族は、皮肉にも「娘の死」によって一つの家族に再統合される。

『グエムル』では、グエムルにさらわれた娘ヒョンソの不在が、居眠りばかりしていた父カンドゥを奮い立たせ、祖父、叔父、叔母とともに、巨大な怪物に真正面から立ち向かわせる。娘の不在は一家を結束させ、ふがいなかった大人たちを勇敢な戦士に変える。ヒョンソは結局、ともにグエムルに囚われた浮浪児を助ける企ての途中、息絶える。

こうして娘は死ぬが、カンドゥは生き延びた浮浪児を引き取り、ともに食卓を囲むシーンで映画は終わる。娘の死と引きかえに得た男の子とともに、カンドゥの一家は新たな疑似的家族として再生したのである。