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芸術においてなぜ「真摯さ」が問題になるのか

オブジェクト指向哲学と自閉症
大崎 晴地 プロフィール

わかりあえない「真摯さ」に触れる

ハーマンは「おそらく真摯さ(sincerity)は、それが長らく追放されていた(倫理の)分野から、芸術の領域へと帰ってくるべきなのだ」と述べている。そして、あらゆる芸術は「舞台芸術の一種」である、と。

受け手が実在的対象の代役を務め、異質な対象の性質に没入することにより、芸術の成立に不可分に鑑賞者が関与する。それは対象に感情移入するようなかかわり方のことではなく、先のチンパンジーの図形文字が感覚的な事物であったように、その関係自体を率直なオブジェクトとして捉えることにある。

抽象絵画を知っている人間であれば、その図形文字を模様や絵と捉えることが可能だが、それが空虚な記号である動物にとってはどのような差異として捉えるのか。翻って、それは動物にとって人間とは別の芸術は成立するのかという問いでもある。

こうして感覚と実在の断絶からオブジェクトを芸術作品として検証することは、一周回って倫理的な問題を再考することにも繋がる。ただし、それは「わかりあえなさ」を強調し、孤立し、引きこもることの「真摯さ」に触れることだ。芸術の自立性が、近代社会においては言語をとおして発見されたとすれば、ここでは率直に感覚の次元で捉えられたと言える。

 

「巨人がいる」:遠近なき文字通りの経験

ハーマンは対象を形式として捉えているが、言語自体の形式の実在については触れていない。意味ではなく身体をとおしてその言語を理解することは、半ば文字(モノ)になり、意味になり、言語による形式に則って身体を再編することだ。

そもそも人間は言語を非物質的なものとして捉えがちだが、言葉によって快/不快にもなる。実際、言葉は人々の身体に物質的に棲みついているのも確かなことで、たとえば「家族」という言葉の呪縛は文字通りの意味で「重い」のである。

また言葉は、人を傷つけたりする以上、物質よりも実在的なものになりうる。そこには倫理の形式的な問いがあり、例えばド・マンは言語のアレゴリーとして倫理を問題にした。

ルソーによれば、言語の誕生は、原始時代に初めて自分以外の人間に遭遇したときの恐怖の感情にあり、そのさいに「巨人がいる」という隠喩(恐れを大きさに喩えている)が言語に先立つと考えた。言語は抽象的なものに形を与えるメディアだが、そこには言語の形式に先行した抽象的な意味があり、個人の感情においてはそのような言語が形式以前の心に宿っている。

この「巨人がいる」という表現はどこか遠近感の喪失した自閉症の感覚を想い起こす。遠近がないために、そこでの恐ろしい体験は文字通り受け取られている経験なのであって、メタファーではないのだ。

ハーマンはオブジェクトの「魅惑」の典型例としてメタファーを挙げているが、「巨人」は形式=形態を持つ以前の心にあるオブジェクトである。近いものと遠いものの遠近が学習されることで、その文字通りの経験は言語としての性格を強める。

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