# 現代思想 # 芸術 # 自閉症

芸術においてなぜ「真摯さ」が問題になるのか

オブジェクト指向哲学と自閉症
大崎 晴地 プロフィール

「杉は炎のようだ」:言語と実在のすれ違い

オリヴァー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』の患者の事例の病理は奇妙に思われるにしても、そこに文学的、芸術的なものを感じさせるのは、妻と帽子に共通する「頭」が隠喩的に働いたからで、動物の図形文字に比べてそこにまだ言語的な指示作用が働いているからだ。現実が文字通りメタファーを内包し、普段は事物と言語が重なり合っていてそのことに気づかないが、それを誤認することで逆説的に現実そのものが文学的であるとわかる。

妻を帽子と間違えることを芸術的だと言えば、それは不謹慎に取られるかもしれない。しかし、その文学的な出来事にはユーモアがある。ここには疾患を持つ人の病理を理解しようとする倫理的な問題から、芸術の問題への移行がある。

現代哲学のグレアム・ハーマンは、隠れたオブジェクトの実在性を説明するために、「杉は炎のようだ」といったメタファーを挙げている。それを読む人が杉の木になってはじめて理解されるという。

ゴッホが描く炎のような筆触の杉(「糸杉」)を想像すればイメージできるだろうか。しかし、それらの物理的な性質はまったく異なる以上、それはイメージや思考の対象にはならず、オブジェクトとして引きこもっているわけだ。ハーマンはこのような人間の思考に及ばない対象を「オブジェクト指向哲学」として論じている。

ゴッホ《糸杉》 1889年6月 油彩 メトロポリタン美術館

この「杉」と「炎」の関係の異質さは、それ自体、不器用なコミュニケーションにも似ている。「妻」と「帽子」を誤認するような場合に似て、そこには言語と実在のすれ違いがある。

 

いずれも言語の規則は正常に保たれているものの、その実体を指示することに違和感がある。通常は「誤認」または「疾患」であり、治すべきとされるが、「杉は炎のようだ」のようなオブジェクト指向哲学に照らして考えたとき、その意味は隣接するオブジェクト同士の新たな非関係性として肯定されるだろう。

それはコミュニケーションすることもあれば、コミュニケーションしないこともある。ある側面はわかるが、別の側面はわからない。

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