なぜ講談社は大改革に成功したのか?受け継がれる「野間家のDNA」

大衆は神である(88)最終回

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

講談社の歴史に光を当て、まったく新しい近代メディア史を紐解いてきた連載も、ついに最終回。110年の重みを背負う七代目社長・野間省伸は今、どんな未来を思い描くのか――。

終章 戦後民主主義と講談社ジャーナリズム(6)

七代目

2019(令和元)年11月、私は東京・音羽の講談社で社長の野間省伸(のま・よしのぶ。当時50歳)に会った。182センチの長身、鼻梁の高い、エキゾチックな顔立ちは祖父の省一の面影を宿している。

省伸とはパーティや飲み会の席で何度か顔を合わせたことがある。最初に会ったのは16年ほど前、彼が常務から副社長になったころで、社員たちから「ジュニア」と呼ばれていたときだった。

そのときは、ひと言ふた言、言葉を交わしただけで、これといった印象は残っていない。当時の私は講談社の個々の編集者ならともかく、雲の上の経営陣には興味がなかった。

しかし、今度ばかりはそうはいかない。何しろ目の前にいる男は、講談社110年の歴史の継承者である。彼がどこに向けて歩もうとしているのか、その胸の内を聞き出さなければ、私が目指すゴールにたどりつけない。

インタビューの途中、ふと思いついてこう訊いた。

野間家7代の歴史を背負って講談社の舵取りをするのは大変でしょう、重圧を感じませんか? すると、本人はあっさり、

あんまり感じないんです

と言った。エッ、なんで?

「もともと楽観的な性格だからということもありますけどね、開き直ってるんです。(社員たちに対して)『悪いけど、僕がバカだったらごめんね』って

と言って、いたずらっぽく笑った。

 

省伸は1969(昭和44)年1月、野間惟道(これみち。第5代社長)・佐和子(さわこ。第6代社長)夫妻の長男として生まれた。父惟道の旧姓は阿南(あなみ)。太平洋戦争終戦の際に陸軍大臣だった阿南惟幾(これちか)の5男である。惟幾はポツダム宣言受諾の「聖断」が下ったのちに割腹自決した。

終戦から20年経った1965年、阿南惟道は野間省一と登喜子の一粒種である佐和子の婿として野間家の人となり、講談社入りした。惟道と佐和子は1男4女を儲け、省伸はその3番目である。そして、第2代社長の恒以来の「直系」男子にしてひとり息子なのである。

1991(平成3)年、省伸は慶応義塾大学法学部を卒業、三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)に入った。銀行では、1年半の支店勤務を経て6年ほど調査部に所属した。自動車業界、航空業界など個々の産業界の動向を把握し、業界全体がどう変化していくのか、そのなかでどのような企業が勝ち抜いていくのか、といった点を調査・分析する仕事に携わった。

調査部での6年のうち4年間はロンドンに駐在し、海外から日本の産業のありようを見てきた。この経験はやがて講談社にとって重要な意味を持つことになる。

省伸へのインタビューで私がまず尋ねたのは省一のことである。省一が出版の国際交流に異様な情熱を注ぎ、アジア、アフリカの「図書飢餓(ブック・ハンガー)」一掃を生涯のテーマにした理由は、本当のところ何だったのだろう。

理由は二つあると思います。第一は、講談社に入る前に、当時の日本で最もインターナショナルな企業のひとつだった満鉄にいたこと。第二は、戦争に対する反省からと言っていいと思うんですが、祖父は、出版を通して世界平和を実現したいと本気で考えていたんじゃないでしょうか

と、省伸は答えた。一つ目も二つ目も核心を衝く指摘だと私は思った。満鉄と、戦争に対する反省は、戦後の講談社の隠れたキーワードである。