第6回・後編では「史料を疑う」という営為が研究者の間で疎かにされている事情を解説するとともに、前編(その①)で取り上げた「将軍くじ引き」の真相に迫ります。
史料を疑う、という姿勢は研究者仲間からたいへんに評判が悪い。理由は2つあるだろうと考えている。
まず1つは、その研究者が能力が乏しくて、史料を疑うという営為を理解できない場合。一応研究者を名乗っているのだから、そんな未熟な人がいるわけないだろう、と思われるかもしれない。ところが、そんなことはない。研究者にも能力が足りない人は結構いるのが現実である。
いまから30年ほど前だろうか、日本はアメリカに倣って大学院教育を重んじよう、という方針に転じた。全国の大学にはどんどん大学院が新設され、修士課程、博士課程が置かれた。この転換につれて、研究者に大きな変化が生じた。
例を歴史研究にとる。それまでは私たち歴史研究者のあこがれは「博士号」だった。1つの歴史事象、たとえば鎌倉時代の政治体制とか室町幕府の財政システムとか朝廷の宗教政策とか、そうした分野丸ごとを視野に収める幅広い考察を行った「手練れ」の研究者が、学究生活の総まとめとして著書を博士論文として提出し、厳しい審査を経て「文学博士」になったのである。これを「論文博士」という。
ところが、大学院重点化が進むと、博士の資格が乱発されるようになった。
貴学は博士課程を設けているのになぜ博士が育たないのか、それでは研究費を配分することはできません、と文科省に注文を付けられる。これは困る。だから「博士号を出す」という結論が先ずありき、となった。
博士課程に籍のある二十代、三十代のいわば「駆け出し」のうちに、博士論文を書くことが強く推奨される。中身のうすい博士論文でも受理されて、大甘な審査を経て博士号が授与される、という事態がごく普通にまかりとおっている。これが昨今の「課程博士」である。
このような叙述は私の身の回り、つまり日本史学を例にしている。他の学問では事情が異なるだろうから、そこはお断りしておかねばならない。たとえば理系では、むしろ昔から一貫して「課程博士」が重んじられていたという話を聞く。理系はグループで実験、研究をするから、論文も連名で書かれる。そうすると、たいした貢献もしていないのに、学閥などの人間関係を利用して、立派な論文に名だけ連ねる。しかも、それくり返して博士号を獲得する、というような事態があったらしい。この場合、「論文博士」が軽んじられるのは当然、となる。
もちろん歴史学においても、さほど価値のない「論文博士」は存在したし、「課程博士」でもたいへんに立派なものはある。だが、大学の都合で促成栽培された博士に、さほどの中身があるはずもない。
博士号を記念としてあげるから、歴史研究の道はあきらめて実社会でがんばってね。担当教員がそう言って大学院生に別れを告げる光景は、いたるところで見られる。2年遅れたら、有力企業への就職は格段に難しくなる、というのが通り相場なのに(ちなみに歴史学では通常、修士課程は2年、博士課程が3年)。
そんな事態になるのは、大学卒業時に予測できたはずだ。
ならば、漫然と大学院に進学しても職を得られる保証はないよ、今のうちにきちんと就職活動をしなさい、とその教員は指導すべきだったろう。最近「高学歴プア」の問題が、様々なメデイアで取り上げられている。博士にまでなったのに職が無い、という現実はまことに憂慮すべきだが、そこには「博士の価値の低下」も1つの要因として作用しているのを忘れてはならない。