「八百長」で選ばれた将軍!?史料のウラに隠された真実とは

<日本史のツボ>のツボ 第6回その①
本郷 和人 プロフィール

当時の人の気持ちになって考えてみる

もう1つ、根本的な問題がある。現代では日記はプライベートなものである。かりに妻の机の上に日記帳があったとして、それを夫がのぞき見るのは、決してほめられた行為ではない。まして、書棚をあさって日記帳を見つけ出し、中を読んだとなれば、それは明らかにプライバシーの侵害であり、夫婦の信頼が大きく損なわれるわけで、離婚や慰謝料請求に繋がるかもしれない。

ところが、中世の日記は違うのだ。それはプライベートに閉じた存在ではなく、人に読まれることを意識して書かれた。史料学的には日記は古記録というが、そもそも平安貴族は煩雑な儀式のやり方や行事の手順を子孫に伝えるために、記録をのこした。それが日記というかたちで記されたので、「古記録」の呼び方がある。

祖父や父が記録を残してくれた。子はそれを熟読して、儀式や行事に臨む。大げさに言うと、このタイミングで右足から出るか、左足から出るか、それを間違えると「あいつは物知らずだ」と批判され、昇進にも響いたのが貴族社会である。

だから、すぐれた古記録は家の宝であったし、親しい間柄であれば、他家にも貸し出された。借りた側はそれを書写して保存した。こうしたことの積み重ねがあってはじめて、平安時代の古記録は現代にまで伝わったのである。

儀式の様子を克明に記しながら、日記の記主はそこに自己の感想や考え方を付記する。研究者としてはその記述がとても大切で、ああAはBと親しいのだな、Cの施政には批判的なのだな、というようなことをすくい取っていく。また、当時の政治を牽引するCの施政方針とか、Cが創出した政治思想とかを復元していくのである。

だから研究者は古記録の叙述について、「それはどういう意図で記されたか」を絶えず考えながら読んでいかねばならない。

 

研究者の腕の見せどころ

たとえば鎌倉時代の後期、皇統が大覚寺統と持明院統に割れたとき、持明院統の伏見上皇の周辺にキナ臭い動きがあり、幕府に警戒されたことがあった。そのとき上皇は日記に「わたしは鎌倉幕府のおかげで皇位に就けたのであるから、関東のやることに不満などはまったくない」と記した。

この記事をどう読むか。上皇の言葉は真実か。真実でないなら、真意は奈辺にあるかを吟味する。それこそが研究者の腕の見せどころ、ということだろう。

三宝院満済の日記にも同じことがいえる。

満済は足利将軍家から義賢という人物(足利義満の弟の子息。義教の従弟)を迎え、三宝院の後継者に定めていた。義賢をはじめ、後世の三宝院主は間違いなく自分の日記を読む。醍醐寺の高僧も読むだろう。もっと広く読まれるかもしれない。満済はそうした事態を前提として、記事を書いている。

ということは、日記には真実だけが書かれているはずだ、と単純に決めつけるのは危険だろう。

ことは日記に限らない。手紙でも書物でも、眼光紙背に徹するというような姿勢が、書き記された文章を読むに際して必要となる。それこそは私が、史料を疑う、ということを強調する由縁である。

第6回その②につづく!