「八百長」で選ばれた将軍!?史料のウラに隠された真実とは

<日本史のツボ>のツボ 第6回その①
本郷 和人 プロフィール

室町人の「かわいた」神仏観

私はこの裁判の史料を以上のように読み込む。この読みは、室町人はすでに神や仏を敬虔に信じるばかりではないのだ、という解釈に結びつく。

もちろん人間以上の存在に敬意を払い、寺院や神社で真摯に頭を垂れることはあっただろう。けれどもそれは常にそう、ということではない。神仏を厳格に信じていたわけではない。時と場合によれば、神仏を便利に使う。つまりは、神仏を絶対的に畏れてはいなかったのだ。

こう指摘すると、いやそれは違う、と反論する研究者が当然のように存在する。室町人は神仏を重んじていたはずだ、と。だが逆に、そうした反対者の存在こそは、私が「史料を新しい視点で読んでいる」ことの証しとなるのだ。

湯起請というものの本質を以上のように捉えるならば、それは室町人のいわば「かわいた」神仏観に、必然的にたどり着かざるを得ない。「かわいた」神仏観に違和感を覚えるならば、湯起請を違う視点で読み解く必要が出てくる。

もう一度くり返し言う。湯起請をどう読むのか。それを理性的に突き詰めていくと、室町人の神仏観を問うことになる。

だが、それはきわめて大きな問題だから、なるべくなら避けて通りたい。そういう研究者は大勢いると思う。では彼らはどうするか。湯起請の解釈にこだわることをしない。「君子危うきに近寄らず」、立ち止まらず、軽快に通り過ぎていく。

この場合、史料の読解力に乏しかったり、考察する力が劣っている研究者は、湯起請が面倒な問いかけに結びつくことを、本当に理解していない。だから、ごく自然に行き過ぎてしまう。ところが、よく読める研究者の中には、これは厄介だぞ、と理解した上でことさらに問題にしない人もいる。

これは確信犯である。こうしたやり方は、面倒がないため、仲間の研究者からの受けが良い。けれども学問の真の進展という見地からすると、私はかかる研究者には、敬意を抱くことができない。

湯起請については、このように意見が分かれることが容易に予想できる。私はこう考える、で決めつけられる話ではない。こうしたものは、たとえばテストには使えない。テストとして出題するからには、みんなが受け入れられる客観的な解答を準備することが必要だからである。史料編纂所レベルのテストであっても活用できない。それが、「史料を新しい視点で読ん」だ成果ということになるだろう。 

 

史料を疑う、とはどういうことか

ここまで話を進めてきたわけだが、このあとの展開は、中世史に明るい読者にはすでに明白だろう。永享4年のこの境争論と裁定とは、『御前落居記録』なる史料に収録されている、と書いた。また御前落居とは、将軍・足利義教の御前で審理が行われ、奉行人たちの助けを得た義教が判断を下すシステムである、とも説明した。その足利義教とはいかなる存在か。彼こそは、神前での「くじ引き」の結果、つまりは神仏の加護によって将軍の地位に就いた人物だったのである。

事件のわずか4年前の応永35年(1428)年正月、幕府のトップであった4代将軍の足利義持が病を得て死の床についた。

義持の男子としては5代将軍になった義量がいたが、彼は若くして亡くなっていた(酒毒によるといわれる)。義量の没後、義持は再び将軍として政務を執っていたが、結局あとを嗣ぐべき男子を得られぬまま、43年の生涯を閉じようとしていた。

義持の死が避けられないことが明らかになると、幕府の重臣たちは慌てふためいた。次代の将軍が定まっていなかったからである。彼らは危篤の義持に後継者の指名をするよう願い出たが、「おまえたちが決めよ」との答えが返ってきた。そこで重臣たちは評議し、義持の4人の弟を将軍の候補として、神聖なくじ引きをすることに決したのである。

候補者4人はみな僧籍にあった。天台宗の梶井(三千院)門跡の義承、同じく天台宗の青蓮院門跡の義円、真言宗の大覚寺門跡の義昭、臨済宗・相国寺の虎山永隆の4人である。

彼らの名を記した4本のくじが作られ、1月17日、管領・畠山満家が石清水八幡宮の社頭でくじを引いた。

翌18日、義持が亡くなった。それを待ってくじを開封したところ、「義円」の名が現れた。かくて青蓮院義円が幕府に迎えられて還俗し、6代将軍の義教(初名は義宣)が誕生する運びとなったのである。