「自粛できない現象」の背景にあるもの

3月20日からの3連休、東京は桜の見ごろを迎えていた。天候も良く、多くの人が花見を楽しみ、たとえば、有料庭園の六義園では、入場まで1時間待ちの行列ができる時間帯もあったと聞く。自粛していないのは、「若者だけ」ではないのだ。『週刊ポスト』のスクープによれば、すでに東京都から花見の自粛が要請されていた3月23日夜、安倍晋三首相の妻、昭恵さんも花見に興じていた。首相の答弁によれば、これはレストランの施設内での写真で、都が自粛を促している公園等での花見には該当しないということだったが、花見ひとつとっても多様な解釈があるのだから、「不要不急」の解釈などそれ以上に多彩ではないだろうか。

「桜を見る会」の時の写真。3月末、モデルやタレントも一緒の「食事会」は確かに「公園の花見」ではなかったけれど……Photo by Getty Images

いずれにせよ、その3連休から約2週間後の4日4日、東京の1日あたりの感染確認者数は初めて100人を超えた

身内の恥をさらすようだが、70代後半の私の母親も危機感に欠けていた。近所のスーパーへの買い物以外は基本的に家にいるのだが、その数少ない外出の際、私が指摘しない限り、手洗いもおざなりだった。しかしそれは志村けんさんの訃報で一変する。(一方的ではあるが)自分がよく知る人の死で、ようやく新型コロナウイルス感染を自らにも起こりうることと考え始めたのだ。

武道をやっている別の友人によれば、空手などの武道系の子どものクラスでは、早くから全面閉鎖になった道場もあれば、外出自粛要請が出ても、声を出さず、距離を保つといった条件付きで通常通り行っていた道場もあったという。もちろん営業的な意味合いもあるが、学童保育的な意味でも機能しているのでなんとか存続させたい、させてほしいという道場と親側の思いも強かったのではないかと思う。

ここに挙げたのはほんの一例だ。「自粛できない現象」の例は大小いくらだってあり、その背景にはさまざまな側面がある。この世界を脅かせている感染症をいまだ他人事としか思えない人もいれば、禁止されない限り「自粛」できない人、「自粛」したら生活を営んでいけなくなる人もいる。それ以前に、ここであえて触れる必要はないのかもしれないが、「自粛」とは、自らの意思で行為を控えたり態度を改めたりして慎むことであり、他人が強制するものではない。