3月29日、新型コロナウィルスによる肺炎により死去。享年70歳(photo by gettyimages/以下同)

70年代のちびっこたちが、俺たちの「志村」の軍門に下った日

だから「志村」はこれからも生き続ける

小学生時代に志村けんのブレイクを見た

志村けんは、日本を代表するコメディアンだった。海外でも多くのメディアが、彼の死を報じたことからも、それは明らかだろう。

全世代から愛されていた志村けんだったが、私は、彼の笑いを体の底の一番深いところまで受け止めたのは、1964年(昭和39年)から69年(昭和44年)生まれだと勝手に思っている。

この世代は、志村けんがブレイクする瞬間を、小学生時代にドンピシャで見ていた。年齢でいうと、55歳から50歳。1968年生まれの私もこの世代に属している。

 

まだ頭が柔らかい小学生は、面白いものを素直に面白がり、面白いものに大きく影響される。それだけに、志村けんの存在は大きく、人生に多大な影響を与えたと言っても過言ではない。

この世代を、あえて「俺たち」と呼ぶが、俺たちは「志村けん」とは言わない。「志村」だ。だから敬意を表して、「志村」と表記し語らせてもらう。

1972年頃、当時の幼稚園児、小学校低学年の子供は、毎週土曜日に放送される『8時だよ!全員集合』(TBS系列)で、ドリフターズの加トちゃんが繰り出す渾身のギャグ「1、2、3、4、やったぜ、加トちゃん、クルッと回って、うんこチンチン」で大喜びだった。とりあえず、“うんこ”と“チンチン”を言っておけば、大爆笑する幼稚園児と低学年の小学生。普段、家庭内で“うんこ”や“チンチン”を口走れば母親が血相を変えて怒る。それがブラウン管で加トちゃんが堂々言うものだから、チビッコたちにおいて加トちゃんは絶対的なヒーローだった。

そんなとき、異変が起こった。1974年(私は小学校1年生だった)、ハゲ注こと荒井注が、ドリフターズを脱退したのだ。

俺たちは、荒井注の「なんだバカヤロー」「ジスイズザペン」のギャグが大好きだった。現場作業員の格好をした禿げたおっさんが、ふてぶてしくカメラ目線で「なんだバカヤロー!」と言って立ち去る姿は、鬼より怖い母親や学校の先生に向かって、俺たちが言いたかった言葉を代弁してくれているようで痛快だったのだ。そんな荒井注が突然ドリフを辞めた。

1974年3月30日放映の『全員集合』のエンディングで、いかりや長助が「うちのメンバーのハゲ注でございますけど……」と荒井注がドリフを辞めることを発表した。辞める理由について、チビッコにはどうでもいいことだった。問題は、荒井注の代わりは誰だってことだ。この日、突然、タキシードを着た若い男が舞台に現れ、いかりやに紹介された。その男の名は、「志村けん」。

「なんだ、チミは?」ではなく、「誰だ、こいつ?」 俺たちは眉をひそめながら思った。そして、「代わりに入るのならあいつだろうよ!」と一斉にテレビにツッコミを入れながら、ひとりの男を思い浮かべていた。

すわ親治―—「ドリフ第六の男」と呼ばれ、のちに、コント集団「ザ・ニュースペーパー」のメンバーとして活動した芸人だ。

1973年、映画『燃えよドラゴン』が公開され、日本でも爆発的人気を誇ったブルース・リーを真似して、「あちゃーあちゃー」と奇声をあげて舞台の端から端まで横切っていく。それだけなのに、抜群に面白かった。チビッコの間では、すわ親治のことを“あちゃー”と呼んでいた。奇声「あちゃーあちゃー」はなかなか真似することができなかった。だからこそ、逆に“あちゃー”は凄いと思った。

「“あちゃー”が代わりに入るんじゃねえのかよ」

このとき、全国のチビッコはとてつもなく大きな不満感を抱いていた。