賞味期限のない、
「思い出」という名の食材

はじめてというのは、何かにつけて印象深いものである。初恋の相手をいくつになっても忘れないのは、相手を思う気持ちが強かったからではない。お母さんに甘えるとか、お兄さんと一緒にいるとぽかぽかした気分になるのとはまったくちがう、異性を慕う気持ちの高ぶりにあえいでいた、初恋のころの自分を懐かしむのである。

歳を取ればとるほど、男女のべつなく、初恋の記憶は色あせるどころか反対に眩しさをます。初恋の相手がとくにすきだったわけではないけれども、ぜったいに忘れない。二度目の恋愛の相手くらいまで覚えていても、三度目以降になると記憶はあやしい。記憶のまえでは相手の性格とか容姿などは付属品のようなもので、恋愛の主人公はこの私。その意味で初恋と食べ物との出会いは、まことによく似ている

はじめて食べたそれが、とくに美味しかったから記憶に残っているわけではけっしてない。食べたものと、その場面、それを食べたときの自分がおかれていた状況が三つ巴になって、記憶の中で料理や使われていた食材がゆるぎのないものになる

パリで暮らしはじめた私の、買い物にいった市場で目に映ずるものの多くが、はじめてのものだった。視覚だけでなく、聞こえてきたマルシェの八百屋のおじさんのかけ声、ロースト・チキンの焼けるにおい、買い食いした甘酸っぱいさくらんぼの味、魚屋さんから手渡された、輪切りの地中海マグロの冷たくぐんにゃりした手ごたえ。瞬時に全開になったあのときの五感の記憶が今、まざまざとよみがえる。わが国から一万キロもはなれた、異郷の地で味わうセンチメンタリズムも大きかったかもしれない。

パリのマルシェには多くの人が訪れ、地元住民の憩いの場となっている。新型コロナで原則閉鎖とせざるを得ないほど、人が集う場所なのだ。日本でマーケットの閉鎖になっていないことが救われるし、フランスでも早く閉鎖しなくてもよい状況になるといいのだが…Photo by iStock

数えあげたらきりがないが、たとえばパリではじめてホワイト・アスパラを食べたときのことが、今も記憶に新しい。あれは70年代最後の年の、6月の晩のことだった。