非常時だからメディア・リテラシーが大切という声がうさん臭い理由

答えは『寄生虫』で描かれた「知性」に
水越 伸 プロフィール

新リテラシーの相貌

では新しいメディア・リテラシーとはどんなものとして構想しうるのだろか。さしあたりの見取り図を3つ示しておこう。

 

まずは、その構成である。先に、マスコミュニケーション論や従来のメディア・リテラシーが、コンテンツにばかり注目してきたことの限界について述べた。その後のメディア論やメディア文化論でも、コンテンツをテキストとみなし、その批判的な分析を行うことがメディア研究だという考え方が主流を占めてきていた。

コンテンツの批判的な読み解きは重要だが、それだけではなく、コンテンツの能動的な表現も重要である。文字を読むことと書くことを同時に学ぶように、批判的な読み解きと能動的な表現は両方を身につけてこそ意味がある。

さらにコンテンツのインフラとなるメディアの仕組みを理解し、DIYで組み立てるトレーニングもまた重要になってくる。『寄生虫』で「下」の人々が発明した電気照明によるモールス信号はまさにDIYメディアだった。ゼロ年代以降、市民メディアやネット上のファン文化の展開の中で能動的な表現はかなり実践されてきた。しかしインフラとしてのメディアのデザインは未開拓である。

批判的読解、能動的表現、インフラ設計の3つが、新しいメディア・リテラシーの構成要素となる。

新しいメディア・リテラシーの3つの構成(筆者提供)
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法政大学社会学部にあるメディア社会学科は、メディア論が学べる日本でもっとも充実したところの1つだが、ここが2018年度以降、「メディア分析」「メディア表現」「メディア設計」という新たなコース分けを行った。この三区分はほぼ、先に示した3つに対応していて、私は大いに興味を持っている。

次に、新しいメディア・リテラシーに取り組む態度である。ブックスマートは本を読み、頭でものを考え、理解する。ストリートスマートはものごとを体験し、それを通じて身体でものごとをわかっていく。

文化人類学の飯田卓に『身をもって知る技法』という本があるが、日常生活で意味のあるリテラシーは身をもって知るべきものだろう。そのためには日常生活の中のメディアの存在や意味を批判的にとらえ直すためのワークショップや、実社会でのメディアを用いた実践トレーニングが必要となってくる。

新しいメディア・リテラシーを身につけるには段階を踏むことも重要だ。少なからぬ講座やワークショップが怪しい結果しか生まないのは、段階を踏んでいないからだ。メディア企業の裏話を元社員が講師となって披露するだけでは、メディア企業やICT産業は悪いことを企んでいるのだという陰謀論にしか帰着しない。子どもたちに映像づくりやソフトウェアづくりをしてもらっても、そこに批判的にふり返る機会がなければ、ただの制作実習で終わってしまう。

メディアの裏側を理解したり、コンテンツ制作を批判的理解につなげるためには、それなりの段階と準備運動が必要なのである。まずは常識や約束ごとでがんじがらめになった私たちの精神と思考のリハビリテーションから始めたい。

私の研究室では今、「2007年にもしiPhoneが発売されず、アップルがこの世からなくなっていたとしたら、2020年のメディア環境はどのようになっていたと思うか、そのシナリオをグループワークで作り出す」というワークショップ「アップルのないメディアランドスケープ」を展開中だ。

このワークショップの目的は、GAFAが陰謀を企んでいて私たちを支配している、などと声高に論じる賢しらさを身につけることではない。

毎日の暮らしの中でそれらに自分がどれだけ依存しているのかをじっくりふり返り、たとえばスマートフォンがなかったとしたらどのようなメディア環境があり得たかを仲間と協調して想像できることにある。

こうした活動を通じて、まずはリハビリ、次にトレーニングするためのプログラム作りを進めるべきである。

最後にいえることは、学校、地域、職場、カフェやオンライン空間で、メディアについて語り合い、自らを取り巻くメディア環境をDIY的に生み出していける場を作っていくことだろう。

人生100年時代といわれるなか、学校以外の場所でメディアを学び合うことが必須となってきている。オンライン教育は新型コロナウイルス感染の拡大で活況を呈しているが、いまだに公民館、社会教育施設、児童会館などでさかんに活用される状態にはない。

新たな時代のリテラシーは、老若男女が学び合える学校以外の場所とそのネットワークづくりと結びついていく必要がある。

それはおそらく、新型コロナウイルス以降の新たな人間社会のありかたをデザインすることと軌を一にしているだろう。

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