非常時だからメディア・リテラシーが大切という声がうさん臭い理由

答えは『寄生虫』で描かれた「知性」に
水越 伸 プロフィール

銅線を伝ってモールス信号を送受信する技術が社会に普及すると、トランスポーテーション(輸送業)とコミュニケーション(通信業)は異なる領域へ分化して発展することになった。そして19世紀後半に電話が、20世紀前半にラジオが、20世紀半ばにテレビが姿を現す。

その歴史は技術進歩だけではなく、技術と社会の相互作用の中で複雑な展開を見せるが、ここではそれには触れない。重要なことは、いずれのメディアにおいても、その普及が高まり当たり前のものになっていくと、人々は乗り物であり器であるメディアのことを考えなくなり、そこに盛り込まれるコンテンツだけに注目していく傾向があったということだ。

たとえばテレビの場合、1950年代には一般の人々でもテレビジョン送受信技術のあり方や、受像機の扱い方についてさかんに議論していた。ところが60年代に入ってテレビの存在が当たり前になると、送り手も受け手も番組にしか目がいかなくなった。

多くの研究者は番組コンテンツが視聴者にいかなるインパクトを与えているか、実証調査を展開した。それがマスコミュニケーション論だった。同じころに、テレビ番組を鵜呑みにせず、批判的に読み解く教育実践を展開したのが、メディア・リテラシーであった。

同様のことはコンピュータでも言える。1990年代、人々は専門知識がなくてもコンピュータをしばしば分解して部品を取り替えるなど、その仕組みに通じていたが、現在の私たちはせいぜいアプリの設定画面を操作するくらいしか技術的なことには関心を持たず、もっぱらメッセージのやり取りやエンタメコンテンツの視聴に注意を払っている。

1987年、秋葉原で撮影。1990年代までは「自作PC」のためのパーツショップが数多く存在した Photo by Kaku Kurita / The LIFE Images Collection / Getty Images

研究者も同じだ。オンラインコミュニケーションやエンタメコンテンツは研究されるが、コンピュータやアプリは理工系の研究として遠ざけてしまっている。

マスコミュニケーション論はメディアの研究をしているというが、じつはコンテンツのインパクトを研究してきた。メディア・リテラシーはメディアという言葉を使っているが、文学が小説の中身には注目するが書物の物質としての意味や印刷技術、出版産業には触れないのと同じで、コンテンツをテキストとして批判的に分析する、伝統的な人文学的系譜の上で進められてきた。

つまりここでいうコンテンツの乗り物、器、枠組みとしてのメディアの研究や教育はしてこなかったのである。

 

マスメディアが安泰だった20世紀後半まではそれでもよかった。しかしグローバル化とデジタル化の中でICTとメディアのありかたが大きく変化しつつある現在、コンテンツにいかなる影響力があるか、メッセージにどれだけ効果があるかは、じつは乗り物としてのメディアのありかたをみなければわからない。

メディアがコンテンツのありかたを、私たちの世界のありかたを規定している。

メディアがいかなる政治経済的、社会文化的要因から成り立っているかをとらえる観点がなければ、皮下注射モデルも保護主義も乗り越えることはできない。原点に立ち戻ったメディア論的な想像力が必要とされているのだ。

メディア・リテラシーを組み替える

メディア・リテラシーのやっかいさの奥には、メディアという言葉を用いながら、乗り物としてのメディアには注目せず、コンテンツがまき散らす害悪にばかり目を向け、それから善良な人間を守るという図式でしか物事を考えてこなかった保護主義の限界があった。

しかし私は、やっかいなイデオロギーがこびりついているにしても、この言葉の眼目だけは救出したいと思っている。そうしないと産湯とともに赤子を流してしまうことになる。