非常時だからメディア・リテラシーが大切という声がうさん臭い理由

答えは『寄生虫』で描かれた「知性」に
水越 伸 プロフィール

当時のマスメディアだった新聞、映画、ラジオなどは、メッセージを同時に不特定多数の大衆に対してまき散らすが、それによって人々はなすすべもなく感情や思考をコントロールされてしまう。まるで皮下組織に注射をしたり特効薬を与えることで、患者にてきめんに効果が現れるように、強大なマスメディアは非力な人々に対して一方的に影響を与えるとしたのである。

このような仮説は、1950年代以降の数々の実証研究によって覆されていく。人々は社会的真空状態にバラバラに散らばる無力な個人の群れではなく、家族やコミュニティなど社会のなかにネットワークを張ってしたたかに生きており、マスメディアのいいようにされるような存在ではないということが明らかになってきたのである。

ところが皮下注射モデルや特効薬理論が学問的に時代遅れとなったあとも、メディアが人々をいいように操る力を持つものという、おどろおどろしいイメージは、社会からなくなったためしがない。

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インターネットでもデジタルゲームでもスマートフォンでも同じ議論が繰り返された。

メディアは恐ろしいウイルスのような影響をもたらし、人々にはなすすべもないというイメージは、純粋な青少年、人間の精神をメディアの害悪から守らなければならないというメディア・リテラシーの保護主義と、きっちりと表裏一体をなしていたのであった。

誰もメディアを考えていない

なぜ誤った古い理論がいつまでも社会に残り続けるのか。

 

その原因を私は、メディア・リテラシーとマスコミュニケーション論が共通して抱えているごく基本的な問題にあるとみている。いずれの領域もこれまで、コンテンツばかりに注目して、本来の意味でのメディアを取り上げてこなかったのではないか。

たとえばテレビの影響という時、人は普通、テレビドラマやニュースなど番組のインパクトのことを考える。誰もテレビ受像機や送受信技術規格のことを考えたりはしない。Twitterを論じるときはツイートのメッセージそのものを問題視する。しかしTwitterのタイムラインのアルゴリズムやフォローの仕組みのことはなんとも思わない。

ここでいう番組やメッセージをまとめてコンテンツというならば、受像機やアルゴリズムはメディアである。

1930年代、ジョン・ロジー・ベアードが構想した完全電子式カラーテレビ受像システムの概念図 Photo by Daily Herald Archive / SSPL / Getty Images

メディアは本来、コンテンツの乗り物であり、人と人のコミュニケーションの媒(なかだち)なのである。今日メディア論をやっているという研究者でさえ、この意味でのメディアに注目する割合は高くない(コンテンツ、メッセージ、テキストはメディアに盛り込まれる中身という意味でさしあたり同じであり、ここではおもにコンテンツを用いる)。

それはなぜなのか。駆け足で歴史をたどりながら論じてみよう。

メディア論的想像力の欠落

古来、人が誰かになにかを伝えることはモノの移動を伴っていた。

たとえば江戸の将軍が加賀藩の殿様にメッセージを伝えるためには早馬や飛脚が使われた。伝書鳩はその名が示すとおり文書を伝達するためのメディアである。

すなわち長い間、物質の移動(トランスポーテーション)と情報の移動(コミュニケーション)は一体だったのである。

両者の関係に亀裂が入ったのは19世紀半ば、電信の登場以降のことだ。