2010年代半ば以降、世界中の人々がスマートフォンを介してSNSをやることが一般化し、BREXIT、トランプ氏の大統領選勝利から、Pokémon GO、地震や台風、そして新型コロナウイルス感染にいたるまで、あらゆる出来事がメディアに媒介され、広く伝播されるようになった。
ネット上の不安を煽るうわさやデマに惑わされず、「正しく恐れる」ためにはメディア・リテラシーが必要だという声があちこちで上がり、話題になりはじめた。そうした文脈でこの言葉は、ネット情報やテレビ番組などのコンテンツ(メッセージ)を鵜呑みにせず、批判的に読み解く力という意味で使われる。
メディア・リテラシーも魔術的なスローガンとしての危うさを秘めている。
「さまざまな情報があふれかえるなか、私たちもメディア・リテラシーを身につけて、偽情報にだまされないようにしていきたいものですよね」
アナウンサーや先生はニコニコしながらそう締めくくる。なるほどとも思うが、どこかうさん臭くはないだろうか。
なにがうさん臭いのだろうか。メディア・リテラシーにはびこる「保護主義」がその臭いの発生源だと、私は考えている。
保護主義とはなにか。人間の、とくに青少年の心は、本来真っ白な紙のようにきれいなものであり、メディアはそれを汚すウイルスのようなものであり、親や先生たちは青少年をそうした外敵から守らなければならない、というイデオロギーのことだ。
メディア・リテラシーに取り組む現代のまともな専門家は、保護主義が誤りだと一致して考えている。理由は四つある。
第一にメディアには悪い面もよい面もあるからであり、第二にメディア現象は送り手だけではなく受け手との共犯関係によって成り立っているからであり、第三にメディアとはなにかを根本的に問い直していけば言語や文字にまで遡り、それなしで人間社会は成り立たないからであり、第四に、人間はメディアと共生して発達するのであり、青少年の心をメディアの介在しない真っ白な紙のように考えることはできないからである。
しかし保護主義はなくならない。一般人だけではなく、専門家を自称する人の中にさえこれを信奉する人がいる。ケータイやSNSなど新しいメディアが登場するたびになにがしかの問題が起こり、そのたびにメディアを批判し、とくに若い世代を守らなければならないという考え方が再生してくるためだ。
政治や教育領域には、保護主義を保守主義と巧妙に練り合わせて主張する人物や組織も少なくない。
メディア・リテラシーは、社会現象を批判的にとらえることに長けた社会学や文化研究でおしなべて評判が悪いが、それはこれらの領域の研究者が保護主義がはらむ問題に鋭敏だからだ。
しかしこの保護主義は、メディア現象に関する学問の起源にまで遡る古い系譜を持っている。
1930年代から40年代にかけてアメリカで発達したマスコミュニケーション論は、メディア現象に関する最初の体系的学問だった。欧米や日本では、それ以前にも写真や映画、ラジオに関するエッセイや思想は散見されたものの、理論と調査法を備え、実証的データを踏まえた研究を志向したのは、マスコミュニケーション論が初めてだった。
この領域の草創期に「皮下注射モデル」、あるいは「特効薬理論」と呼ばれる仮説があった。