子どものころから歴史が大好きだったぼくには認めがたいことなのだが、歴史は嫌い、という人がたいへんに多い。
なぜかと尋ねると、暗記ばかり強要されるから、という答えが返ってくる。
「歴史=暗記モノ」という図式はびっくりするほど強固に定着していて、それを覆すことは容易ではない。本当は歴史学は暗記する必要などない学問なのだが、今回はそのことには触れない。高等教育において日本史はどのように学ばれているのか。何を以て成績をつけ、さらに上位の研究教育の機関に進むことを許すのか。それらを具体的に見ていくことにしよう。
大学で歴史を必修科目としているところはないのではないか。日本史の研究者になりたい、社会科の教員になりたいという人は別だが、絶対に履修しなくてはならない科目、ではない。結局、歴史は暗記モノだから嫌い、という人は高校までの「覚える,もしくは覚えさせられる歴史」という認識を上書きすることなく卒業していく。そうした人が社会で地歩を築いてオピニオン・リーダーになるわけだから、歴史はつまらない、という誤解は改まることがない。予算の配分が議論されるたびに、じゃあ歴史学に割り当てているカネとヒトを減らすか、という主張がまかり通る由縁である。
いや、またグチになってしまったので話をもとに戻そう。
歴史学は何かをたたき込まれ、暗記させられる,受け身な学問では本来ない。根拠となる歴史資料(すなわち史料)を博捜し、読み込み、解釈し、それを根拠として歴史像を作っていく、ポジティヴな学問なのだ。
この一連の流れの中心に位置するのは「史料を読む」という行いであって、大学での日本史はその振る舞いを徹底的にトレーニングする。史料を正確に読み、根拠を明示しつつ論を立てる。そうした「実証的な」態度を修得するのだ。それが社会に出たときにどんな役に立つのか、という話はこれまた別に述べることとして、大学の日本史教育は基本的にはそういうものだと理解していただきたい。
ぼくが専攻する中世史の場合、史料といえば貴族や僧侶など、当時の知識人が書いた日記(これを古記録という)、それから古文書が中心になる。さて、これをどう読むか。ぼくは次の4段階で考えている。
以下、具体的に見ていこう。