昭和20年4月28日、台湾・宜蘭基地より神風特攻第十六大義隊の出撃。壇上は司令・玉井浅一中佐

4度の特攻出撃…辛くも生き残った19歳は沖縄の空に何を見たか

搭乗員たちが見た「空の沖縄戦」第3回
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島、次いで4月1日には沖縄本島に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。あれから75年――。
地上戦ばかりがクローズアップされがちな沖縄戦だが、航空部隊も、押し寄せる敵の大軍に一矢を報いようと必死の戦いを繰り広げ、特攻隊だけでも3000人を超える、多くの若い命が失われた。戦力が圧倒的に劣る絶望的な戦況のなか、沖縄の空を飛んだ男たちは何を見たのか。
3回シリーズ最終話は、あまり語られることのない台湾、石垣島から飛び立った特攻隊の若者たちの戦いを振り返る。
 

志願ではない、命令による特攻隊が編成された

沖縄戦の特攻基地は九州だけではない。押し寄せる米軍に一矢を報いるべく、台湾の航空基地からも特攻隊が繰り出された。昭和19(1944)年10月、最初の特攻隊を出したフィリピンで激戦をくぐり抜け、翌20(1945)年1月、米軍のルソン島上陸を受けて台湾へ脱出した搭乗員たちを中心に、新たに編成された特攻専門部隊の隊員たちである。

第二〇五海軍航空隊(二〇五空)。本部を台中に置き、司令はフィリピンから転戦してきた玉井浅一中佐(のち大佐)、副長兼飛行長には、昭和18(1943)年、オーストラリア本土のダーウィン空襲で、豪州空軍のスピットファイア部隊を相手に一方的勝利をおさめ、戦闘機隊の名指揮官として知られた鈴木實少佐(のち中佐)が内地から着任した。

二〇五空の特攻隊は「大義隊」と呼ばれることになり、103名の搭乗員がそれに組み入れられた。大義隊の一員だった長田利平(当時19歳、二飛曹)は語る。

「白鞘に『神風』と『豊田副武』(聯合艦隊司令長官)と墨書した短刀を金紗の袋に入れ、それを一振りずつ全員に授与され、遺書を書かされました。私は、木綿の布に、<両親が今日まで育ててくれたことに感謝する。私は國の為、親、兄弟姉妹の為、喜んで敵の航空母艦に体当りして死んでゆきます。親孝行もできず先に逝くことをお許し下さい>といった内容のことを毛筆でしたため、最後に<我行きて太平洋の防波堤とならん>と辞世を書いた。短刀は遺書とともに家族のもとへ送られました」

志願ではない、命令による特攻隊がここに誕生したのだ。

「それまでもフィリピンで、いつ撃墜されてもおかしくない戦いをしてきましたが、特攻となるとやはり意識は違います。特攻指名されたその日から、死んだらどうなるんだろう、地獄や極楽など死後の世界はあるのか、と考える反面、体当りすれば木っ端みじんに砕けて全てが無に帰する、などと思ってみたり。

19歳の少年に哲学や仏教の知識はありませんし、観念的に、故郷の山河や父母兄弟姉妹、ひいては祖国日本を救うための礎になろう、と考えるのが精いっぱいでした」

台湾、石垣島より4度の特攻出撃を重ねた長田利平・元一飛曹(右写真撮影/神立尚紀)

それでも、隊員たちは苦悩の姿を表に出す者はなく、いつもと変わらない様子で、悲壮感はなかったという。これは全員が特攻隊員で、いわば同じ運命が待っていたからではないか、と長田は回想する。

4月1日、米軍の沖縄本島への上陸を受けて、石垣島、台湾の新竹、台南の三つの基地から計20機の「第一大義隊」が出撃、敵空母1隻に3機の体当たりを報じたのを皮切りに、二〇五空は二十三次にわたって特攻出撃を重ねた。大義隊の目標とするのは、一に沖縄沖の敵機動部隊だった。