太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島、次いで4月1日には沖縄本島に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。
あれから75年――。地上戦ばかりがクローズアップされがちな沖縄戦だが、航空部隊も押し寄せる敵の大軍に一矢を報いようと必死の戦いを繰り広げ、特攻隊だけでも3000人を超える、多くの若い命が失われた。戦力が圧倒的に劣る絶望的な戦況のなか、沖縄の空を飛んだ男たちは何を見たのか。3回シリーズの第2回は、学窓から身を投じ、ペンを操縦桿に持ち替えて戦った学徒出身パイロットの戦いに焦点を当てる。
沖縄の空で戦ったのは、海軍兵学校や飛行予科練習生(予科練)を卒業した、いわゆるプロの軍人ばかりではない。大学や専門学校(旧制)を卒業、あるいは在学中に志願、あるいは召集されて軍に入った、学徒出身の搭乗員も次々と最前線に投入された。
東京の豊島師範学校を卒業、小学校教員を経て海軍飛行専修予備学生十三期生を志願した、元山(げんざん)海軍航空隊の土方敏夫中尉(当時23歳、のち大尉)も、その一人である。
「朝鮮半島の元山基地にいた私たちにも、4月6日、鹿児島県の笠之原基地に進出が命ぜられました。まずは分隊長・山河登大尉が主力を率いて進出し、4月8日、私が第二陣の零戦12機を率いて笠之原に到着しました。このときの持ち物は、零戦に積めるだけのもの、すなわち通称『落下傘バッグ』一個だけ。洗面用具、新しい下着、野立て用茶道具一式、数学の本1冊、ぐらいです。
元山から4時間半飛行して、狭い笠之原飛行場に着陸。そこで、山河分隊長の戦死を知らされ、愕然としました。山河大尉は、私たちが到着する前日の4月7日、特攻隊の直掩で出撃し、激しい空戦を終えて帰投する途中、エンジンオイルが漏れて海上に不時着水、零戦に積んでいたゴムボートの上で軍艦旗を振っていたそうですが、その後の消息はわからないと。
空戦の神様のような人がまさかエンジンのオイル漏れで戦死するとは、運命というか、人の命の儚さを思い知らされたような気持ちで、涙がとめどもなく溢れました」
土方は翌4月9日の邀撃戦を皮切りに、沖縄をめぐる激戦に明け暮れることとなる。
「4月11日、士官宿舎で夕食のデザートにあんみつが出ました。すると、近くにいた士官たちが、『またあんみつが出たな。明日はきっと激戦だぞ』と言う。ここ笠之原では、大きな作戦の前の晩には必ずあんみつが出るんだそうです。そうか、これが最後の好物なんだ、と思い、味わって食べました」
明くる4月12日、「菊水二号作戦」に出撃。ところが、土方はこの日の発進時、乗機のエンジンが不調で離陸が遅れ、本隊を追ったが空戦に参加できずに引返した。