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「これはダメ…」朝日新聞の「令嬢」が、無骨な記者だけに見せた素顔

運命に翻弄された「最後の社主」

創業家と経営陣の長きにわたる因縁に終止符を打つため、敏腕記者が「最後の社主」のもとへ送りこまれた。彼が見たのは、四半世紀にわたり一人で創業家を背負い、運命に翻弄された女性の姿だった。発売中の『週刊現代』が特集する。

秘書という名のお目付役

3月3日午前0時12分、朝日新聞創業者・村山龍平氏の孫で、朝日新聞社主の村山美知子氏(享年99)が肺炎で亡くなった。

「社主」とは聞き慣れないが、創業家である村山家が代々務める名誉職で、いわば朝日新聞における「象徴天皇」のようなものである。会社の行事への出席、挨拶など代表としての儀礼的な役割を担うが、編集方針に干渉することは許されない。

しかし、朝日新聞の経営陣にとって社主は「目の上のたんこぶ」であった。美知子氏は生前116万もの朝日新聞社株を保有していたからだ。

これは朝日新聞社(非上場)の全株式の36・4%にあたる。ひとたび美知子氏が意見を口にすれば、経営陣はそれを無視することができなかったのだ。

朝日新聞の歴代社長は手を替え品を替え、美知子氏に持ち株を手放すよう説得を繰り返してきた。地道な「懐柔作戦」も続けられた。一人で暮らす美知子氏のもとに、朝日からお目付役として「秘書係」がつけられてきたのもそのためだ。

「秘書係は代々、大阪本社の社会部出身者が多い。私も事件記者が長かったため、推薦されたのだと思います」

こう語るのは'07年春に秘書係に抜擢され、都合7年、美知子氏に仕えた樋田毅氏(67歳)だ。

 

朝日を退社した樋田氏が3月26日に上梓した『最後の社主』(講談社)が、朝日幹部やOBに衝撃を与えている。

謎に包まれた美知子氏の半生、朝日新聞と社主の水面下の攻防が赤裸々に綴られており、対応をめぐって社内は騒然としているという。同書と樋田氏の証言をもとに真相に迫ろう。

〈庭園と合わせ約六〇〇〇坪の広壮な邸宅。

一〇〇〇本を超える木立に囲まれ、そびえ立つ洋館は、西洋貴族の屋敷のごとき偉容を誇っている。

もう一棟は六〇畳敷の大広間と高楼を併せもった日本館で、その規模の大きさと豪華さに、度肝を抜かれた。通路には無造作に美術品が置かれ、壁には名画が飾られていた〉(以下、〈 〉内は『最後の社主』より引用)

神戸・御影のこの大邸宅で、美知子氏は洋館と日本館に挟まれた居住棟に住んでいた。「最後の深窓の令嬢」といわれ、きらびやかな生活を送っていた美知子氏。樋田氏が当時を振り返る。

「朝に食べるパンの銘柄、焼き具合、紅茶の出し方もそれぞれ決まっていました。いつもと異なると、『これはダメ』とおっしゃる。昼と夜は専属の料理人が作りますが、毎食、少しずつ10品ほど召し上がっていました」