朝日新聞「最後の社主」の死…知られざる生涯と「遺言書」の謎

大メディアが「秘封」したもの
伊藤 博敏 プロフィール

記者として、秘書として

一方で樋田氏は、12年から退職までの5年間、大阪秘書役として美知子社主の「守り係」となった。事件記者と秘書――。相関関係は薄そうだが、「社主の世話をすることで行動を記録する」という一点に、樋田氏は自らの役割を見つけた。

その成果が本書である。庭園と合わせ6000坪の邸宅に住む美知子社主は、「深窓の令嬢」と呼ぶに相応しい戦前を生き、戦後はその資力を生かし、大阪国際フェスティバル協会専務理事として運営に関わるようになり、カラヤン、ストラヴィンスキー、小澤征爾ら世界的音楽家から全幅の信頼を寄せられ、「ミチ」と呼ばれて愛された。

同時に、美知子社主には、朝日創業者の村山龍平翁が明治、大正期に集めた重要文化財19点を含む書画骨董の香雪美術館理事長としての仕事もあった。

 

村山家と朝日は、美知子社主の父・長挙氏が、63年、社長として役員を解任したところ“返り討ち”に遇って追放され、以降、対立関係にあった。

77年、長挙2代目社主が死去。美知子氏が3代目となるが、36%以上の株を握る美知子社主が、外資への売却など、いつ株主権を行使するかわからず、経営陣は邸宅のある「御影詣で」を欠かせなかった。

樋田氏は、「記者の目」で美知子社主の日常を追いつつ、資料を集め、周辺者、親族などと交流をしつつ、それをメモに書き留め、出版の準備に務めていた。