日航機「よど号」ハイジャック事件の発生から、この3月31日で50年を迎える。犯行グループ9人は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で、日本人女性と結婚して子どもをつくり、36人の「日本人村」を築いて暮らすようになった。子どもたちへの教育について、森順子が振り返る。
「大変だったことや楽しかったことは、やはりあの当時20人もいた子どもたちとの思い出です。幼児期から小学校初等期までは、日本人村で親が教科書をつくり日本語教育していました」
「この狭い村の中では社会性が身につかないし、先生が親ということもあるし。子どもは集団の中で育てた方がいいと親たちで話し合い、朝鮮の学校に行かせたいことを朝鮮側に提起しました。1987年頃から市内の学校に通い、朝鮮の子どもと一緒に学ぶようになりました」
「子どもたちは朝鮮の学校に通いながら、夜は私たちが日本の国語、社会などを教えていました。でも、子ども同士の日常的な会話はどうしても朝鮮語が主流になり、もう毎日毎日、『日本語で話しなさい!』って怒鳴っていました」
北朝鮮にできたこの日本人の集団は、外国にある日本人コミュニティーと形成過程はまったく異なるものの、いつも“日本”を向きながら生活してきたのは同じようだ。人数が多かった頃の「村」の暮らしの一端を、若林佐喜子は次のように描写する。
「大変でもあり楽しくもあった運動会。日本人村・管理所所の人たちも参加して、総勢50人あまり。入場行進から始まり、準備体操をして競技。種目は、椅子取りゲーム・障害物競走・ビンつり競争・探し物競争・熾烈な騎馬戦・ドッジボールなど。子どもたちが低学年時は、負けて悔し泣きする子もあり。笑ったり泣いたり、エネルギッシュな楽しい思い出です」
「年末の歌・出しもの合戦。これも結構大掛かりです。紅白に分かれて、歌・楽器演奏・寸劇などを準備。ある年は、自分たちで衣装までつくってのシンデレラ姫。大好評で、こんな才能があるんだと関心するやら。ワイワイガヤガヤ、大勢ならではです」
米朝交渉の中で米国はたびたび、「よど号」ハイジャック犯の追放を求めた。また2014年の「日朝ストックホルム合意」の際には、北朝鮮が追放するかのような報道もあった。小西隆裕に、50年間に北朝鮮からの対応に変化があったかどうかを聞くと、「まったくありません」と答えた。
そうした北朝鮮の対応を「朝鮮の法に従うという条件で『政治亡命者として受け入れる』、『帰国のための活動条件は保障する』ということだと思う」と若林は説明する。
いきなり勝手にやって来た「赤軍派」を50年もの間、手厚く保護してきた北朝鮮。その最大の理由は、ハイジャックした9人を受け入れるという決断をしたのが建国の父・金日成(キム・イルソン)主席であるからではないか。その後の最高指導者たちも、それを継承しているということだろう。