実行犯が語る「よど号ハイジャック事件」50年目の新事実【中】

彼らは今、北朝鮮で何を思うのか
日本の現代史に残る大事件「よど号ハイジャック事件」から、今年で50年が経つ。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ渡った犯行メンバーたちはその後どうなったのか。今、何をしようとしているのか――。

⇒【上】から続く

「ハイジャック犯」と結婚した女性たち

1970年3月31日に日航機「よど号」をハイジャックし、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ渡った「赤軍派」。メンバーの結婚については、長らく知られていなかった。ところが1992年4月に金日成(キム・イルソン)主席が、日本のマスメディアとの会見で妻と子どもの存在を明らかにした。

小西の結婚式での全員の写真(「よど号グループ」提供)

メンバーの中で最初に結婚したのは小西隆裕だった。ハイジャック前に結婚を約束した女性が、大変な苦労をして平壌へやって来たのだ。5年半ぶりに再会して結婚。その後、他のメンバーも続いた。

田宮高麿の妻となった森順子は、朝鮮半島北側で生まれた父親を持つ。「朝鮮人として生きるのか、日本人として生きるのか」と悩んでいた時にハイジャック事件が起こる。

「当時、私は高校1年でした。彼らが朝鮮という国を選んだことへの衝撃と不安を胸に、何日間もテレビの前に座っていたことを憶えています。朝鮮は私のもう一つの祖国でもあります。行きたくても行けない祖国に、いとも簡単に行ってしまった彼ら。朝鮮で何を学び、日本人として何を支えにどう生きていくのか聞いてみたいという思いを強く持ちました」

1977年11月、森は、祖国の土に還してあげたいと父親の遺骨を持って北朝鮮へ渡る。

「私が最初に見た朝鮮社会は、(朝鮮戦争の)廃墟から素手で立ち上がった人々の強さと自負心、そしておおらかさでした。確かに物は少ないし、とても豊かな生活とは思えない現実です。しかし、物や金を優先する社会でも、人を軽く見て対する社会でもないように感じました。40年が過ぎた現在も、こうした見方は変わっていません」

 

森は平壌滞在中に、関心があった「よど号」メンバーたちに会いたいと希望を出すと、田宮がやって来た。何度か会ううちに「今度はこの人を、祖国(日本)へ帰してあげたい」と思うようになる。そして翌年5月に結婚式を挙げた。

結婚直後に南浦(ナムポ)で撮影された森と田宮(「よど号グループ」提供)

「私の結婚は、ひと言で言って『出会ってしまった』ということに尽きます。『赤軍派』とか『ハイジャック犯』とかは、私の中では問題になりませんでした。ただ、気になったのは(結婚について)何も知らない日本の家族です。いつか会える、きっと私を理解してくれる日がくる。そう信じ、自分が選択した道を進もうと思ったわけです」

中学校を卒業したばかりの若林佐喜子は、「よど号」ハイジャック事件を自宅のテレビで見ていた。「特別な思いはなく、家族や友人と話題にした記憶もない」というほど関心はなかった。

そんな若林の北朝鮮との関わりは、通うようになった保育専門学校で「主体(チュチェ)思想」の研究会と出会ったことから始まる。当時、18歳。仲間たちとそれを学ぶ中で、北朝鮮へ1度行ってみたいと思うようになる。

保育園で働いている時に、その研究会活動に行き詰まってフランスのパリへ行く。そこで、1996年に渡っていた若林盛亮と出会い、悩みを相談するようになった。そうするうちに「この人に付いていけば間違いない」と思い、1977年4月に盛亮と一緒に平壌へ行く。

若林の結婚の際に撮られた写真(「よど号グループ」提供)

「若林(盛亮)に対して『よど号、ハイジャック犯』というより、日本を離れてもずっと日本のことを思い続けている人という印象の方が強かった。異国の地にあって祖国日本に熱い思いをよせ、日本のために尽くしていこうとしている若林を少しでも助けたい、付いていきたいという思いで結婚を決心しました。帰国という問題は楽観的にとらえていて、まさか朝鮮での滞在がこれほど長くなるとは夢にも思っていませんでした」

 

森や若林佐喜子ら「よど号」メンバーと結婚した妻たちは、彼らと結婚するということの意味を、結婚時にはあまり考えなかったようだ。

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