【戦争秘話】沖縄上空で米軍を迎え撃った男たちの「過酷すぎる戦い」

搭乗員たちが見た「空の沖縄戦」第1回
神立 尚紀 プロフィール

「あと2時間半の命です。ではお先に」

日本側は沖縄の米軍に反復攻撃をかけるべく、日本各地に展開していた実戦部隊を順次、九州の各航空基地に集結させ、消耗した部隊には飛行機の補充を図った。

鹿児島県の国分基地に進出した第六〇一海軍航空隊の岩井勉少尉(当時25歳、のち中尉)は、昭和15(1940)年、零戦のデビュー戦に参加した歴戦の搭乗員である。岩井は、4月3日の特攻隊前路掃討を皮切りに、沖縄への出撃を重ねたが、その間、どうしても忘れられないひとコマがあるという。

岩井勉・元中尉。出撃直前の特攻隊員と司令長官のやりとりが忘れられないという。戦後は米穀会社経営(右写真撮影/神立尚紀)

「九九式艦上爆撃機の特攻隊に、ベテランの飛行兵曹長がいました。私より若いが妻帯者で、戦歴も技倆も相当のものです。その彼が、4月6日、菊水一号作戦で特攻出撃前の整列のとき、司令長官・宇垣纏中将に、『質問があります』と手を挙げた。『本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか』と。長官は即座に、『まかりならぬ!』と、一喝しました。

『かかれ』の号令のあと、彼は私のところへ駆け寄ってきて、『いま聞いていただいた通りです。あと2時間半の命です。ではお先に』と言い置いて、機上の人となりました……」

 

横須賀海軍航空隊(横空)戦闘機分隊長・岩下邦雄大尉(当時24歳)は、笠之原基地の第二〇三海軍航空隊(二〇三空)へ増援する零戦の空輸を命じられ、4月6日、12機を率いて横須賀から笠之原に飛んだ。

岩下邦雄・元大尉。横須賀から鹿児島・笠之原基地へ空輸任務で派遣され、そのまま現地で零戦隊の指揮官となった。戦後は魚粉会社を経営(右写真撮影/神立尚紀)

「笠之原基地に着いたときにはすでに暗くなっていて、着陸灯を頼りに着陸すると、基地は、何やらものものしい雰囲気でした。菊水一号作戦で出撃した飛行機が、相次いで帰還する時間だったんです。

そこで、二〇三空司令・山中龍太郎大佐に空輸完了の報告をしたところ、『ちょうどよいところに来てくれた。実は今日、飛行隊長の神崎國雄大尉が奄美大島上空で戦死したので、当分の間、君に戦闘機隊の指揮をとってもらいたい。空輸搭乗員も全員一緒に戦ってもらう。横空司令にはこちらから了解をとるから』と言われました。

空輸がすんだら横須賀に帰るはずでしたが、戦争ですから否応はありません。全く思いがけず、私たちも菊水作戦に参加することになりました」

と岩下は振り返る。