昭和20年4月、沖縄の海は米軍艦艇に埋め尽くされた

【戦争秘話】沖縄上空で米軍を迎え撃った男たちの「過酷すぎる戦い」

搭乗員たちが見た「空の沖縄戦」第1回

太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島、次いで4月1日には沖縄本島に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。

あれから75年――。地上戦ばかりがクローズアップされがちな沖縄戦だが、航空部隊も、押し寄せる敵の大軍に一矢を報いようと必死の戦いを繰り広げ、特攻隊だけでも3000人を超える、多くの若い命が失われた。戦力が圧倒的に劣る絶望的な戦況のなか、沖縄の空を飛んだ男たちは何を見たのか。3回にわたってお届けする。

 

「特攻機が全機命中しても、敵にはかすり傷」

「雲の多い日でした。一面の雲海の上を高度5000メートルで飛び、沖縄上空に到達すると、中城湾に、海面を埋め尽くすほど多数の敵艦艇がひしめいているのが見えた。それまでに見たことも想像したこともないほどの数です。

私は12機を率いて30分間、上空警戒にあたりましたが、その間にも特攻機が敵艦に突入したと思われる黒煙が、幾筋も立ち上るのが望見されました。しかし、どう見ても味方の飛行機よりも敵艦艇のほうがはるかに多い。たとえ特攻機が全機命中しても、敵にかすり傷程度しか与えられまい。戦いはもう、来るところまで来たな、そんなことをふと考えました」

と、昭和20(1945)年4月6日、沖縄に来襲した敵艦船を攻撃するため、九州に展開した日本陸海軍航空兵力の総力を挙げて行われた「菊水一号作戦」で零戦隊の一隊を率い、鹿児島県の笠之原基地から出撃した植松眞衛大尉(当時23歳。第三五二海軍航空隊分隊長)は語る。

植松眞衛・元大尉。昭和20年4月6日、零戦隊の一隊を率いて沖縄に出撃。翌7日には戦艦「大和」の最後の上空直衛に任じた。戦後は伊藤忠商事に勤務(撮影/神立尚紀)

沖縄への上陸に先立つ3月18日、アメリカ海軍機動部隊は、のべ940機の艦上機をもって九州各地の日本軍航空基地を空襲。翌19日には呉、阪神地区の艦船と工場、九州北部の航空基地をのべ約1000機で攻撃した。

これは、サイパン、テニアンや硫黄島への上陸の際にも見られた、大規模な上陸作戦を前にまず周辺の日本軍基地の抵抗力を奪うという、米軍の常套手段である。

昭和20年3月23日、南西諸島が敵機動部隊の空襲を受け、26日には米軍の一部が慶良間諸島に上陸。

そして4月1日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始した。米軍はその日のうちに沖縄の二ヵ所の飛行場を占領し、早くも4月3日には小型機の離着陸を始める。

昭和20年4月、沖縄にまさに上陸しようとする米軍上陸用舟艇

この米軍の動きに一矢を報いようと発動された航空作戦は「菊水作戦」と呼ばれ、4月6日、その第1回として海軍機391機、陸軍機133機の合計524機が出撃した。うち特攻機は、海軍215機、陸軍82機の計297機。海軍特攻機の未帰還は162機だった。米軍記録によると、この攻撃で駆逐艦3隻と上陸用舟艇1隻が沈没、戦艦1隻、軽空母1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦15隻など計34隻が損傷したという。

この沖縄への第一次航空総攻撃を「菊水一号作戦」と呼ぶ。沖縄上空で植松大尉が見たのは、この日の戦いの一断面であった。