2019年7月27日、釜石鵜住居復興スタジアムで行われた日本対フィジー戦のスタンドに立つ石山次郎

ラグビー界の「寡黙なレジェンド」が釜石の復興に刻んだ9年間の足跡

世界選抜に選ばれたV7戦士の熱き思い

石山次郎、62歳。秋田県能代市出身。昭和50年代、ラグビー日本選手権を7連覇した新日鐵釜石で背番号1を背負い、スクラムの最前列で体を張り続けた、伝説のプレーヤーだ。

石山にとって第二の故郷とも言える釜石を巨大津波が襲ったあの日から9年、誰よりも寡黙なことで知られた男は、何を思って、釜石復興のために疾走してきたのか?

 

表舞台を嫌った男が支援活動の先頭に立った

今年も3月がきた。

毎年のことだが、この時期になると、石山次郎のもとには、たくさんのメディアから取材依頼の連絡がくる。東日本大震災の発生した3・11にあわせ、多くのメディアが特集を組むからだ。

2020年1月、神戸製鋼とのOB戦に出場した石山(中央でボールも抱えている)

特に去年は、もうすぐ釜石でワールドカップが開かれるから、ということで連絡してくるメディアがたくさんいた。石山はほとんどのオファーは断った。

「私はもう、釜石にはいませんから」

石山がそう答えると、たいていの相手は驚いた。ワールドカップの1年前、釜石のスタジアムが完成した頃、石山は「時の人」だったからだ。

しかし、石山は、そんなふうに扱われるのを好まなかった。

「あとは、釜石にいる人に聞いてください。私よりもよほど上手に、わかりやすく話をしてくれますから」

なるべく丁寧に、それでいて素っ気なさも伝わるように、石山は言うのだった。

石山を以前から知る人は、そんな様子を見て小声で言った。

「次郎さん、昔に戻ったね」

石山は新日鉄釜石ラグビー部が日本選手権7連覇を飾った時代の主力メンバーだった。ポジションはFWの最前列でスクラムを支えるプロップだ。石山はその過酷なポジションで社会人大会7度の決勝、日本選手権の7度の決勝、すべての試合でスクラムを支え、日本代表にも世界選抜にも選ばれた。

だが、メディアにその肉声が登場することは滅多になかった。石山は、無口なことで知られていた。石山は、釜石の連覇が途切れ、自身も現役を引退すると、ラグビーの表舞台から姿を消していた。

そんな石山が、公の場に姿を見せたのは2011年、東日本大震災の後だった。

石山は、ともにV7を戦った新日鉄釜石ラグビー部のOB仲間と連絡を取り合い、震災で壊滅的な被害を受けた釜石を目指した。当時勤務していた静岡県藤枝市の現場から、愛車プリウスに予備のガソリンと支援物資を積み込み、釜石まで片道800キロの道のりをひとりで運転し、ラグビー部時代の仲間やお世話になった人たちを訪ね、支援物資を届けたのだ。

石山は釜石から戻ると、首都圏に住むOB仲間と連絡を取り合い、復興支援組織「スクラム釜石」を立ち上げ、新日鉄釜石ラグビー部を母体に地域密着のクラブチームとして活動していた釜石シーウェイブスの存続のため、募金活動を始めた。そして、首都圏や全国各地で開かれるラグビーのイベントや、各地で開かれた被災地支援のイベントに出かけては募金活動の先頭に立った。

2011年5月 、スクラム釜石の立ち上げ記者発表(左から2番目、マイクを持つのが石山)
2011年7月に群馬県太田市陸上競技場で行われた 「東日本大震災復興祈念試合」新日鐵釜石対三洋電機の OB 戦で(左が石山)

マイクを握り、言葉を尽くして釜石の窮状を訴える石山に、現役時代を知る仲間は、「おまえ、ホントにジローか? いつからしゃべれるようになったんだ?」と冷やかした。