新型コロナ危機、「緊急事態宣言」という「劇薬」の是非

宣言に必要な条件とはなにか
山下 祐介 プロフィール

もう一つの条件――事態終了後に退く覚悟

緊急事態を宣言した政治体はだから、たとえそのオペレーションに成功したとしても、そうした事態を引き起こしたこととともに、オペの遂行で生じたあらゆる犠牲についてもすべて「責任」を負わねばならない。危機の原因が政治の側に一切なくても、である。

そしてその「責任」は、まずは当然、被害に対してそれをきちんと補償するということだが、死者の命は戻らない。そして金銭的保障も、その分、財政を圧迫し、国民自身に返ってくるのだから、その先の経済・財政への影響までもが、この責任には含まれることになる。

緊急事態宣言を発する政治体の責任はこうして、ふだんの政治的決定にはないほど重く、また勝算の少ないものである。しかもそれは繰り返すように、国民の自由や権利の束縛を伴うものだ。

それゆえ、緊急事態宣言は、ただ国民に犠牲を強いるだけでなく、それを要請する政治体そのものが自己を犠牲にするものでなくてはならないわけだ。

それは簡単にいえば、事態終了後にそのすべての責任をとってやめる覚悟をすることにほかならない。

そう。緊急事態宣言とは、その政権が、当該事態と心中する覚悟を決めた時にだけなされるべき宣言なのである。

そのように覚悟を決めることで、その政治体は一時的に国民から強力な権限を一手に引き受ける資格を持つことができる。

逆にいえば、その権限を使い、あらゆる手段を用いることで、その政治体は危機回避の手段を探ることが可能になるということなのである。

 

前編の続きでいえば、2011年の原発事故の時の菅直人政権は、そういう覚悟で東日本大震災・原発事故発生後の半年間の政府を運営していたと、私は見る。

当時のメディアには、菅政権は震災・原発事故の直後の混乱の責任をとって早くやめろという意見もあったが、緊急事態発生時に急に政権を切り替えることにはさらなるリスクが伴う。この場合はつづけるべきなのだ。

そして、真の緊急事態をようやく超えた半年後の2011年9月に彼らは政権を明け渡し、退いている。自体が一段落したと見たのだろう。

筆者からみれば、むしろその後、被災地の復興や原発避難政策においておかしな展開が始まっていることの方が問題である(拙著『「復興」が奪う地域の未来』岩波書店)。