この数ヶ月のあいだ、私は不思議な感覚でいた。筆者は感染症予防の歴史を専門とする研究者だが、パソコンのモニターに映り日々更新されていく「新型コロナウイルス」がつくりだす光景は、まるで中世のペストの流行を見るかのようだったからだ。いくつか例を挙げよう。
とくに驚いたのはイタリアの大規模な地域封鎖と、日本の「ダイヤモンド・プリンセス号」の隔離だ。こうした措置はもともとペスト対策としてつくられたもので、19世紀には使われなくなっていた。というのも19世紀に流行したコレラには封鎖や隔離が有効ではなかったし、それ以上に、人々の自由を制限しすぎて問題が大きいと考えられたからだった。今回は、19世紀に一度否定された方法が復活したというわけだ。
一方で、デマや人種差別が横行し、商品が買い占められるといった光景はパンデミックによく見られ、歴史にも容易に類例を見つけられる。
中世のヨーロッパで最初のペストが流行したとき(14世紀)、シュトゥットガルトやストラスブール、ケルンなどの街でユダヤ人の虐殺が起きている。別の地域で死者が続出しているという情報を得てパニックになった人々がいたのだろう、ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れているのを見たと証言する者がでてきたからだ。しかし、それらの街にペストが流行するのは虐殺よりも何ヶ月もあとのことだった。
感染症の流行というと、単にウイルスが蔓延し、病気にかかる人が増えるという状況を想像するかもしれないが、上記の例を見てもわかる通り、それほど単純なものではない。それはもっと社会的で複雑な現象だ。「新型コロナウイルスの流行」は、多くの人にとって「病そのもの」ではなく、「病にかかるかもしれない」という「恐怖」や「漠然とした不安」を引き起こしているのである。
注目すべきは、この漠然とした不安が政府による強い介入を許容することにつながる点だ。SNS上では安倍晋三総理や日本政府に対して、もっと強いリーダーシップを発揮するよう求める声が多い。そのような声の背後には「蔓延してしまってからでは遅い」という恐怖がある。
しかし「取り返しがつかなくなる前に、何とかしてほしい」というのは危険な考えである。なぜか。それは「予防」という公衆衛生のもつ危険性が関係している。本稿では、日本のかつての過ちや今回のコロナウイルスへの対策、他国の例にも触れつつ、「予防」の危うさと難しさについて考える。