もはや神頼みしかない? 日本人は「感染症」にどう対処してきたのか

感染症の民俗学
畑中 章宏 プロフィール

その後も天皇は、疫病のため太宰府で多くの死亡者が出ていることを聞き及び、神に御幣を捧げて祈祷し、京の寺や諸国の寺々に「金剛般若経」を読ませた。さらに太宰府に使者を遣わし、疫病に罹った人々に稲穀や布、綿、塩などを支給し、薬を与えるように命を下したのである。聖武は、未知の感染症の流行を食い止めるため仏にすがるとともに、現実的な施策も実行しているのだ。

天平15年10月15日(743年)、聖武天皇は近江国紫香楽宮で「大仏造立の詔」を発した。この発願を天然痘大流行と結びつける説もあり、近年も天変・事変が重なると「大仏建立」が取り沙汰される。今回も「大仏建立アプリ」が開発され、人気を集めているようだ。

しかし聖武の大仏造立の詔のなかには、疫病に関する言葉は出てこない。聖武の治世には疫病流行のほかにも、飢饉や政治的混乱が打ち続いたことから、そうしたすべての事態を憂慮して大仏造立は発願されたものだろう。しかも現実に巨大な毘盧遮那仏と、それを収める大仏殿の造立は、疲弊した民衆にさらに負担を強いるものだったのである。

感染源は朝鮮半島? それとも中国?

天平時代の天然痘がどこからもたらされたのかについては、朝鮮半島と中国の二つの説がある。

天平9年1月(737年3月)、遣新羅使(朝鮮半島南東部の新羅国への使節)の帰朝報告によると、大使の阿倍継麻呂は帰路、対馬で病死し、副使の大伴三中に病気が伝染して同行できなかったという。その大伴三中は病が治癒して、朝廷に帰国を報告したが、その時、100人を越えていた一行が、40人に減っていたのである。

 

彼らが朝廷に参内した直後、天然痘は平城京中に広まり、最高権力者である藤原房前が死亡したのをはじめ、房前の3人の兄弟など、太政官8人のうち5人が次々と死亡し、藤原政権が倒れる事態までに発展した。

また聖武天皇が諸国の寺院に「般若経」を転読させた天平7年の流行の際には、入唐から帰国した吉備真備、玄昉ら、遣唐使・遣唐留学生らが、中国から持ち込んだのではないかと疑われている。