「人権」と「思いやり」は違う…日本の教育が教えない重要な視点

「道徳」で「差別」に挑んではならない
池田 賢市 プロフィール

「思いやり」の危険性

現在の日本の教育のあり方では、人権や権利に関する教育は、個人の価値観や道徳性の涵養へと容易に読み替えられていく。法律自体がその方向を後押ししているのだから。

思いやりなどの心の状態を強調し、「弱者」への配慮こそが問題解決のあり方だと示された子どもたちは、その「弱者」自身が、自らを弱者に追い込んだ社会を批判し、権利を主張していくことに対して、どう受け止めるであろうか。おそらくは、そのような権利主張を否定的に、日常的な言い方を使えば「わがまま」だととらえていくのではないだろうか

たとえば、「特別の教科 道徳」の教科書には、障害者が登場する読み物教材が多く載せられているが、そこでは、いつも、障害者は、健常者が「優しくしてあげる」対象として描かれている。そして障害者は、その「優しさ」に対してお礼を述べ、ある場合には「ご迷惑をおかけします」とも発言させられている。さらには、障害を克服しようとがんばる姿が描かれる。障害者が、自らの権利を主張するなどといった場面は出てこない。

「障害者」が自らの存在について、健常者とされる者たちによって「障害者」に分類され、差別されているのだと主張したとすれば、それはおそらくヒステリックに否定されていくことになるだろう。そのことは、いくつもある道徳の内容項目(価値)の中で、障害者が登場する教材の多くが「親切・思いやり」という項目を学ぶものとして掲載されていることからも容易に想像がつく。

どうしてこの駅にはスロープがないのか、どうして目が見えないとこんなに不便を強いられるのか、といった社会的な観点は出てこない。困っている障害者を思いやりをもって助ける健常者、という構図はゆるがない。

こうして、問題解決場面から争議性は排除され、構造的課題は不問に付され、温情主義的な方法がよしとされていく。このような方法は、「強者」が「弱者」に対してもつ圧倒的な力関係を問題にすることはなく、したがって、差別を温存させることになる。「思いやり」は差別と同居する

 

また、社会問題に対する道徳的なアプローチ、つまり、心のもちようによる解決、個人的関係の中での解決というアプローチは、自己救済を強調し、国家等の公的機関がやるべき諸施策を免責する危険性をもはらんでいる。

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