鳴らなかった防災行政無線…宮城県名取市「閖上津波訴訟」の現場から

ある震災遺族の9年間【第1回】

ある震災遺族、9年の足跡

〈 東日本大震災に伴う津波は、名取市にも閖上地区を中心として甚大な被害をもたらした。本訴では、東日本大震災当時、別添の東日本大震災第三者検証委員会報告書《以下、「検証報告書」という》が提言するような防災対策が講じられておらず、防災行政無線が機能しなかったことにつき、被控訴人(名取市、一審被告)の法的責任の有無が争われている。
当裁判所としては、取り分け、防災行政無線が機能し、1人でも多くの尊い命が救済できていればとの思いを禁じ得ず、本訴の提起に至った控訴人(震災遺族、一審原告)らの心情は理解できるところである。
(中略)当裁判所は、このような観点から、被控訴人が、検証報告書の内容を真摯に受け止め、その反省と東日本大震災の教訓を活かして、今後の自然災害に対し万全の備えをすることが、地方公共団体としての責務であり、さらには、東日本大震災に伴う津波の犠牲となった多くの命を無にすることなく、少しでも、その遺族の悲しみを癒すとともに本訴を提起した控訴人らの心情にも沿うことになると考え、当事者双方に対し、本件を和解により解決することを勧告した。
このような当裁判所の所感と勧告を踏まえ、当事者間に次の通りの和解が成立した 〉

【( )内は筆者注釈。ゴチック部分は筆者強調。以下同】
佐々木一十郎(ささき・いそお)名取市長(当時)に対し、2度目の公開質問状を渡す守雅さんら「名取市震災犠牲者を悼む会」のメンバー。この時、「悼む会」は直接の質疑応答を佐々木市長に求めたが、市長はこれを拒否した(2012年7月31日、名取市役所。筆者撮影)

東日本大震災の発生から丸9年を迎えた翌日の2020年3月12日、仙台高等裁判所で、「被災地最後の津波訴訟」といわれた「閖上津波訴訟」の和解が成立した。和解金は無く、訴訟費用も双方の負担となった。

同訴訟の〈控訴人〉は、9年前、宮城県名取市閖上で、生後8ヵ月の長男・雅人ちゃん、父の喜佐雄さん、母のすみ子さん、祖母のろくさんの4人を津波に奪われた竹澤さおりさん(44歳)、守雅さん(52歳)夫妻、そして喜佐雄さん夫婦の息子で、さおりさんの弟たち4人の震災遺族。

震災発生当時、仙台市内で仕事を持っていた竹澤さん夫妻は、あの日も普段と同じように、さおりさんの実家である閖上の喜佐雄さん宅に雅人ちゃんを預け、すみ子さんが面倒を見てくれていた。その雅人ちゃんと、すみ子さんは、9年経った今も行方不明のままだ。

この4人の震災遺族が、閖上地区で700人以上の犠牲者を出したのは、本来、災害時に避難を呼びかけるはずの防災行政無線が鳴らず、地域防災計画で定められた広報車による避難呼びかけもなかったため――として、名取市を相手取り、国家賠償法に基づく損害賠償請求訴訟を仙台地方裁判所に起こしたのは、14年9月5日のことだった。

それから約5年半。一審での敗訴を経て、二審で名取市との和解に至った竹澤さん夫妻の表情は、和解成立後の記者会見でも、到底、「晴れやか」というには程遠く、また「安堵した」というそれでもなかった。

あえて言うなら、彼らの面持ちには、家族を津波に奪われてから提訴に至るまで、そして一審敗訴を受けての控訴、さらには控訴後、高裁による和解勧告を受け入れるまでの9年間の「葛藤」と、苦渋の選択を重ねてきた「疲労」が張り付いているようだった。

 

私が竹澤さん夫妻と出会ったのは、震災発生から約5ヵ月後の2011年8月。その4ヵ月前、ほとんどの住宅が津波で流され、瓦礫に覆われた閖上で、守雅さんが作った、雅人ちゃんの行方を探す張り紙を目にしたのがきっかけだった。

発災直後、そしてその後の竹澤さん夫妻の、家族を喪った悲しみや苦しみについては、松本創との共著『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(2012年、講談社)に書いたが、私はその後もこの夫妻の“歩み”を見続けてきた。今回の「和解」に際し、改めて彼らの9年の足跡を振り返ってみたい――。